大煙突の完成と煙害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
「日立鉱山の大煙突」の記事における「大煙突の完成と煙害」の解説
大煙突の建設は当初、1914年(大正3年)中に終わらせる予定であった。しかし第一次世界大戦の勃発によって鉄材の需給状況が変化したのに加えて、ドイツ帝国海軍巡洋艦がアジア方面にも出没していたこともあって鉄材の輸入が遅れてしまい、1915年(大正4年)3月15日まで完成予定を延期する手続きを取った。それでも1914年(大正3年)12月20日には大煙突本体工事は完成し、煙道などの付帯工事も1915年(大正4年)2月25日には2月中の完成の目途が立ったため、農商務省に使用開始の許可を求めた。翌26日には農商務省から使用を許可する旨の連絡があり、1915年(大正4年)3月1日に大煙突は使用開始されることとなった。 大煙突の完成後、日立鉱山や鉱山に近い入四間などでは煙害は激減した。このように製錬所に近い場所の被害は明らかに減少した。また日立鉱山の南側も被害が少なくなったが、北側はかえって被害が増えたとの報告がなされている。また、大煙突の使用開始後は風向きがおおむね西から東である冬季は煙害の心配がほぼなくなったものの、主に春から夏にかけて、海から内陸に向けて風が吹くような気象条件が続くと以前よりも広範囲に煙害が発生することになった。この点では高い煙突が煙害を拡大するという大煙突建設前の懸念が現実のものとなった。 また、大煙突完成当時は第一次世界大戦の最中であり、折からの好景気の影響で日立鉱山では銅の増産が急ピッチで進められていた。銅の増産は当然排出される亜硫酸ガスの絶対量の増加をもたらす。結局日立鉱山側は大煙突とともに、気象観測網を大々的に整備して、煙害の発生が予測される天候時には、製錬に制限を加える制限溶鉱を煙害発生の危険性に応じて段階的に実施して、タバコなどの農作物被害を軽減させる方策を取ることになった。 大煙突による入四間など日立鉱山に近い地域での煙害の激減と、制限溶鉱によるタバコなどの農作物の煙害軽減によって、日立鉱山の製錬排煙に伴う激しい煙害は少なくなっていった。もちろん煙害そのものが無くなったわけではないが、激甚な被害が減少したため、日立鉱山の支払う煙害の補償金は1914年(大正3年)度の約24万円をピークに大幅に減少していく。 大煙突が煙害防止にもたらしたもう1つの利点は、高い煙突であるがゆえに、広範囲で排煙の状況や煙の流れる方向が確認できるようになったことが挙げられる。つまり地元民からも製錬所の排煙を目で監視することが容易となり、対応がしやすくなったのである。そして日立鉱山の大煙突が煙害問題について挙げた成果によって、日本では高い煙突を用いて排煙を行うことが主流となっていった。
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