大煙突をめぐる状況の変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 08:50 UTC 版)
「日立鉱山の大煙突」の記事における「大煙突をめぐる状況の変化」の解説
1973年(昭和48年)に始まった第一次石油危機による経済停滞の結果、日本国内では銅の需要が低下して大量の滞貨を抱えるようになった。しかし大量の滞貨にも関わらず、銅鉱石の輸入は長期契約に縛られて思うように減らすことができず、銅の製錬部門は極めて苦しい経営を強いられるようになった。このため、当時の日本鉱業(現在のJXTGホールディングスならびにJX金属)は日立の製錬所を閉鎖して製錬事業は佐賀関一本に絞る決定を行い、1972年(昭和47年)12月に操業開始した、煙害を最終的に解決した自溶炉法の製錬所は、わずか4年足らずの1976年(昭和51年)7月に操業終了となった。その後日立では佐賀関で製錬された粗銅を電解精錬により電気銅とし、さらに電解精錬の陽極泥から金、銀、白金などを回収する事業を中心に行うようになった。また1978年(昭和53年)には産業廃棄物から銅などの有用金属を回収するリサイクリング溶解炉が運転を開始する。製錬所の閉鎖後、日立では亜硫酸ガスを大量に発生させる事業自体が無くなった。しかし大煙突は日立で行われている電解精錬、リサイクリング溶解炉事業などから排出される排煙の煙突として現役を続けた。そして1981年(昭和56年)9月30日、大煙突の生みの親ともいうべき日立鉱山が、採掘対象となる鉱石を掘りつくしたことによって閉山となった。
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