国際条約と大幅改正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/04 13:47 UTC 版)
「著作権法の歴史 (アメリカ合衆国)」の記事における「国際条約と大幅改正」の解説
著作物の国際流通の増加に対応すべく、世界各国が著作権に関する多国間条約を締結する動きが拡がった。米国著作権法の第101条 (各種用語の定義) によると、米国の加盟する国際条約・協定は以下のように列記されている (2019年4月現在、米国の加盟日順)。 万国著作権条約 (1952年採択、同年発効。米国は1952年に原加盟国として署名) レコード保護条約 (1971年採択、1973年発効。米国も1973年に批准し、1974年3月10日から施行) ベルヌ条約 (1886年採択、1887年発効。米国は約1世紀後の1988年に加入し、1989年3月1日から施行) TRIPS協定 (1994年採択、1995年発効。米国は1995年1月1日から施行) WIPO著作権条約 (1996年採択、2002年発効。米国は1997年署名、1999年批准、2002年3月6日より施行) WIPO実演・レコード条約 (1996年署名、2002年発効。米国は1997年署名、1999年批准、2002年5月20日より施行) その他 (条文上では特に定義されていない) ウィキソースにベルヌ条約 (1948年ブリュッセル改正版)の日本批准時の日本語訳があります。 ウィキソースにベルヌ条約 (1971年パリ改正版)の日本批准時の日本語訳があります。 ウィキソースに万国著作権条約 (1952年当初版)の日本批准時の日本語訳があります。 ウィキソースに万国著作権条約 (1971年改正版)の日本批准時の日本語訳があります。 条約の採択・発効・批准の違いについては「条約#条約の締結」を、世界各国の著作権関連条約加入状況については「en: List of parties to international copyright agreements」を参照 世界的には3. ベルヌ条約をベースに著作権保護の共通化が始まったが、19世紀当時は外交上、他国へ干渉しないモンロー主義の立場をとっていたことから、米国はベルヌ条約の協議の場には参加していたものの、原加盟は見送っている。さらに、ベルヌ条約が1908年のベルリン改正で無方式主義を採用したことから、英米法の流れを汲む方式主義の米国はベルヌ条約に加盟できなかった。また英米法では財産権 (著作物を複製して富を得る権利) の側面を著作権法で規定・保護していたのに対し、大陸法では財産権だけでなく人格権 (著作物は著作者の思想・感情を表現したものであり、著作物の改変は人権侵害との考え方) も認めている違いがある。そこでベルヌ条約未加盟の米国とラテンアメリカ19か国は、1910年にベルヌ条約の条件を緩和した内容のブエノスアイレス条約(英語版)を採択した。 続いてUNESCOの支援の下、ブエノスアイレス条約をベースとして起草された万国著作権条約が採択され、ベルヌ条約加盟国の多くもこれを批准したことから、米国と欧州・日本などの各国をまたぐ国際的な著作物が保護されることとなった。しかしベルヌ条約と比べて万国著作権条約は保護内容が緩やかであった。加えて、万国著作権条約締結時の米国著作権法は1909年改正 (Copyright Act of 1909) ベースであったため、「司法判断の際に役立たない」「時代遅れの産物」、「国際標準から取り残されている」といった批判が有識者や著作権利益擁護団体などから長年なされてきた。 「万国著作権条約#発効時のベルヌ条約との比較」も参照 こうしたベルヌ条約批准に向けた国内法整備の気運の中、米国著作権法における20世紀最大の大幅改正が1976年の著作権改正法 (Copyright Act of 1976; 1976年制定、1978年1月1日施行) によって実現した。1976年の改正以前は連邦法が既発表著作物を、そして州法が未発表著作物の著作権をそれぞれカバーしていたが、1976年の改正によって正式に未発表著作物も連邦法による保護下に含まれることとなった。これに伴い、USCOへの著作物の登録も任意となっている。また当改正以前は、フェアユースが専ら司法判断に任されていたものの、当改正によって正式に成文化された。 さらに技術革新や社会需要の変化に伴い、1976年の著作権改正法では著作物の定義が広がった。著作物の定義を記した第102条や、連邦議会に提出された改正法の主旨文には、映画、テレビ、ラジオ、コンピューター・プログラムなどの文言が登場している。映画を例にとると、米国における映画館のスクリーン数は1975年頃を境に急激に増加しており、ハリウッド映画業界の転換期とされている。またIT業界では、マイクロソフト社の前身であるTraf-O-Data社が1972年に、アップルコンピュータ社が1976年にそれぞれ創業するなど、コンピューター・プログラムが米国産業の成長の柱となり始めた時代でもある。貿易赤字に苦しんでいた当時の米国にとって、米国著作権法を改正することで、映画やITなどの知的財産を国際水準で保護して、輸出を促進する狙いがあったとの指摘もある。 続いて1988年制定・1989年施行のベルヌ条約履行法 (Berne Convention Implementation Act of 1988) によって、米国も無方式主義に転換したほか、建築著作物も著作権保護の対象となった。さらに1990年制定の視覚芸術家権利法(英語版) (Visual Artists Rights Act of 1990、略称: VARA) により、視覚芸術作品に限って著作者人格権も新たに保護対象となった。 「著作権法 (アメリカ合衆国)#視覚芸術著作物」も参照
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