国宝・二の丸御殿の経緯や建築について
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「二条城」の記事における「国宝・二の丸御殿の経緯や建築について」の解説
徳川家康が二条城の造営に着手したのは慶長6年(1601年)であるが、現存する二の丸御殿の建物群はその20数年後の寛永期に大改修されたものである。後水尾天皇の二条城行幸に備えて、寛永元年(1624年)から御殿の大改修が始まり、同3年(1626年)に完成した。二の丸御殿が寛永期に新築に近い改修を受けていることは川上貢らの調査で判明しており、建物内の障壁画についても寛永期の作であることが土居次義、武田恒夫らの研究で明らかになっている。 御殿の正門である唐門を入ると、正面に遠侍及び車寄があり、以下、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の各建物が南東から北西へ雁行形に配置される。各建物は入側や渡廊下で連結されている。遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が国宝に指定され(遠侍及び車寄は1棟に数える)、これらの建物の各室の床(とこ)、床脇(棚)、帳台構、襖、障子腰、長押上壁などには狩野探幽ら狩野派の絵師による障壁画が描かれている。御殿の建物はおおむね寛永期の状態を伝えるが、改変された部分もある。各建物の屋根は現状は瓦葺きであるが、当初は杮葺きであった。貞享3年(1686年)に建物の破損検分を行った際の記録によれば、当時すでに瓦葺きであったので、屋根葺き材の変更時期は1686年をさかのぼることは明らかである。 二の丸御殿は、明治以降、昭和14年(1939年)に京都市に下賜されるまでの間は京都府庁や二条離宮として使用され、その間に障壁画の破損が進んだ。大広間と黒書院の外面の腰高障子も明治期に新たに入れられたもので、当初は使われていなかったものである。日本の城郭の御殿は明治以降に破却されたものが多いなかで、二条城二の丸御殿は、一部に改変や破損があるとはいえ、元来からのオリジナルの建物と障壁画がともに現存するという意味で大変貴重な存在である(名古屋城本丸御殿では、障壁画は大部分が現存するが、建物は太平洋戦争の空襲で焼失した)。 遠侍は二の丸御殿のうちもっとも手前に位置し、かつ、もっとも大規模な建物である。棟を南北に向けた入母屋造、瓦葺きの建物で(以下に述べる二の丸御殿の諸殿はいずれも入母屋造、瓦葺き)、面積は1,048平方メートル。登城した大名や家臣らの控えの場となった建物である。平面は正方形に近く、間取りは東西・南北とも3列構成で、北東に位置する勅使の間(上段・下段に分かれる)から逆時計回りに、一の間、二の間、三の間、柳の間(四の間とも)、若松の間、帳台の間があり、これらに囲まれた中央部には芙蓉の間と物置がある。物置以外の各室に障壁画があり、いずれも金地濃彩である。勅使の間は上段が21畳、下段が35畳。上段には二間半幅の押板形式の床(とこ)と棚、帳台構を備えるが、付書院はない。このような大規模な御殿の主室に付書院を設けないのは異例である。床に向かって左の入側境(通常、付書院の設けられる位置)には腰高障子を嵌める。画題は上段が楓、下段が檜の大樹を主とした金地濃彩画である。一の間、二の間、三の間の障壁画の画題はいずれも竹虎図で、これらの室には虎の間の別称がある。遠侍(玄関)の障壁画に虎を描くことは名古屋城本丸御殿などにも例があり、来訪者を威嚇する意図があるという。障壁画の筆者については狩野山楽との伝えもあるが、研究者は狩野甚之丞の筆と推定している。『二条御城御指図』(宮内庁書陵部蔵)には遠侍の障壁画の筆者を「真節」としており、これは「真設」(甚之丞の号)を指す。なお、この甚之丞については、名古屋城本丸御殿対面所の障壁画の筆者とされる甚之丞とは別人(または制作時期が大きく異なる)の可能性が指摘されている。 式台は遠侍の西に接して建つ東西棟の建物である。面積は332平方メートル。登城した大名らの取次の場となった建物で、手前に式台、その裏手に老中一の間、老中二の間、老中三の間がある。各室の障壁画はいずれも金地濃彩である。式台の間は48畳で、床(とこ)、棚、付書院等の設備はない。式台の間の障壁画は松の巨木を描く。 大広間は式台の西に接して建つ南北棟の建物である。面積は784平方メートル。二の丸御殿の諸殿のうちもっとも格式が高く、将軍の表向きの対面に用いられた、公式的・儀礼的空間である。一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間からなる。一の間は48畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備え、天井はもっとも格の高い二重折上格天井とする。障壁画は松の巨木を主題とする。式台と大広間の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野采女すなわち狩野探幽の筆とあり、伝承どおり探幽の作とみなされていたが、2019年(令和元年)、二条城の研究により四の間の松鷹図に関しては狩野山楽が手掛けたと結論付けられ、通説が覆されたと報じられた。 蘇鉄の間は式台と黒書院をつなぐ、南北棟の渡廊下状の建物である。明治期に板敷に変更されているが、江戸時代には畳敷の部屋であった。 黒書院は蘇鉄の間の北西に接して建つ東西棟の建物である。「黒書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「小書院」と呼ばれていた。面積は569平方メートル。大広間が公式的・儀礼的な表向きの対面の場であったのに対し、黒書院は内向きの対面の場であり、将軍の御座所でもあった。規模は大広間より一回り小さい。一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなり、二の間、三の間、四の間は障壁画の画題から、それぞれ桜の間、浜松の間、菊の間ともいう。一の間は24畳半で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。このうち、棚を北面東端から東面北端にかけて矩折り(L字形)に配置するのが特色である。一の間の天井は格天井だが、大広間の一の間のような二重折上とはしていない。障壁画は式台、大広間と同様、松を主題とするが、床貼付絵は松に梅、柴垣、小禽鳥などを配し、松樹には残雪を表すなどして早春の季節感を表す。さらに床脇(棚)の壁貼付の竹図と合わせて松竹梅を表している。黒書院の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野尚信の筆とあり、伝承どおり尚信の作とみなされている。 白書院は黒書院の北に建つ南北棟の建物で、御殿の建物群のうちもっとも奥に位置する。黒書院とは渡廊下を介して接続する。「白書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「御座之間」などと呼ばれていた。面積は318平方メートル。大広間や黒書院に比べて規模が小さい、内向きの建物である。将軍の休息所、寝所として使用され、本来は将軍と夫人、おつきの女中のみが入ることができた間であった。障壁画は他の諸殿が金地濃彩を主としているのと異なり、白書院の障壁画は淡彩が主体となっている。間取りは黒書院と同様、一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間、付属の間(指出の間)からなるが、規模は黒書院より小さい。一の間は15畳で、床(とこ)、棚、帳台構、付書院を備える。一の間の天井は格天井だが、二重折上としていないのは黒書院一の間の天井と同様である。障壁画は淡彩の山水画で、中国の西湖の情景を表したものである。白書院の障壁画の筆者については『二条御城御指図』に狩野興意(狩野興以)の筆とあるが、筆者については異説もあり、2012年に東京都江戸東京博物館で開催された「二条城展」では「狩野長信または興以筆」とされていた。 二之丸御殿障壁画の明細
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