司法官試補を辞め友愛会へ
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「棚橋小虎」の記事における「司法官試補を辞め友愛会へ」の解説
司法官試補になった棚橋であったが、1918年4月に麻生に友愛会入りを強く奨められたこともあって、徐々に司法官試補を辞め友愛会入りをすることを考えるようになった。その中で友愛会の野坂参三、麻生久、久留弘三らと友愛会改革案を検討するようになっていく。これは友愛会を労働団体として改組するためのもので、次のような成案を会長の鈴木文治に提出し、改革案は了承された。この了承と共に棚橋の友愛会勤務も承諾され、労働運動家として活動していくこととなる。 (一) 友愛会を関東、関西、横浜の三部に分ち各主任者一名を置き全権を委任して経営にあたらしむ。三部は各独立とす。(二) 会長は以上三部を統括す。会長の俸給は三部の分担とす。(三) 『労働及産業』は本部の直営とす。各部は一部七銭の割合にて代金を本部に支払う。(四) 関東部は棚橋、関西部は久留、横浜部は板倉、『労働及産業』には野坂を各主任とし、油谷・平沢・菊地は解雇とすること。(五) 『社会改良』は知識階級に対する自由思想宣伝用として我らに一任させてもらうこと。麻生が主としてこれにあたる。 — 前掲棚橋書、p.103 友愛会入りを決めた棚橋は9月に入ると麻生宅をクラブとして毎週会合をすることを麻生、山名らと申し合わせた。これは社会情勢の研究団体で、後に木曜会として発展し、佐野学なども参加するようになる。10月27日、棚橋は司法官試補の辞表を提出し、翌日に友愛会に入った。友愛会入りを果たした後、棚橋は吉野作造から内務省保健調査会が労働者の生計状態を調査するため東京市内の労働者街に定住してその調査に当たる人物を探しており、棚橋がその任に当たったらどうかとの誘いを受け、調査会を主催する高野岩三郎に面会した。高野から話を聞いた棚橋は、友愛会の松岡・野坂に相談し反対を受けたものの、調査の仕事を放棄する気になれず受諾することとなった。棚橋は早速、労働者街を調査して保健調査所の設置場所として島全体が労働者の町であった月島を、調査責任者を山名義鶴とし棚橋は側面からこれに協力することを高野に進言した。当初、高野は月島を調査所の設置場所として認めずに本所区柳島横川町を考えていたが、視察の結果月島を調査所の設置場所とすることにした。この月島の労働保健調査所は関東方面の最も開明的な労働運動の基地となっていく。 1919年、鈴木文治渡欧中における友愛会本部。前列左から久留弘三・野坂参三・北沢新次郎・松岡駒吉、後列左から一人おいて麻生久・山口政利・棚橋小虎・可児義雄。 12月に入ると会長の鈴木文治が渡欧したこともあって、棚橋は関東出張所主任として忙しい日々を送るようになっていった。棚橋は東京帝大時代から住んでいた本郷から月島の餅田守一の2階にその住居を移し、公私ともに労働運動に関わるようになった。1918年末当時で関東出張所管内の友愛会員は約5,000人で、管内で起こる争議に忙殺されていった。そんな中、1919年1月に岸井寿郎の姪にあたる孝子と婚約した。孝子は岸井寿郎の異母兄にあたる岸井品八の二女で、岸井寿郎の誘いで見合いをしたことがあった。孝子との間には後に三男二女をもうけることになる。 春ごろに起こった三田支部(日本電気株式会社に設置された労働団体)における賃金値上げストライキでは、当時としては珍しい12日間にわたるストライキとなり、棚橋はこの争議を指導すると共に会社側との交渉も担当して、要求の大部分の貫徹と犠牲者を出さないという結果を導き出し、「大会社を向うにまわし支部の全力をあげて対決した初めての争議であって大変印象深かった。」と回想している。更に治安警察法第十七条撤廃運動を鈴木文治の代理で友愛会の会長になっていた北沢新次郎に提案し、賛成を得てこの運動を展開した。こうした活動の中で棚橋は、更なる「労使の対立を前提とする戦闘的労働組合主義への転換」を考え、麻生久の友愛会入りを企図するようになる。4月、棚橋は麻生の友愛会入りを実現に向けた動きとして、麻生が友愛会入りを決意させること、友愛会本部の人不足を他の本部員に認識させることのためにサボタージュを行い、友愛会を長期欠勤して松本に帰郷してしまう。これを受けて5月、麻生は友愛会入りを決意し、友愛会本部側でも受け入れを承諾した。麻生は早速棚橋に上京を求める手紙を送り、棚橋はこれに応えて友愛会に復帰することになった。上京後、棚橋は会長代理の北沢と主事の松岡駒吉と協議して、本部の陣容一新案を実行に移す第一着手として友愛会出版部長であった平沢計七を退職させ、麻生を部長に据えた。こうした結果、友愛会は労働団体としての陣容を整え、8月末に開催された友愛会第七周年大会において「大日本労働総同盟友愛会」に改称を決定した。この大会において「明白な社会主義に立ってはいないが、労働者の人間性を強調し、資本主義の発達と機械文明の進歩が必然的に労働者の人格を蒸ししてこれを単なる生産の機械視することに抗議し、労働者は国際連盟と労働規約の精神に生き、自力をもって労働者の生存する権利と自由とを獲得すべきことを主張」して、更に組織体制も「会長独裁制」から「職業別地域別の地盤より選出された25名の理事の会議制」への変更、地域支部を職業別もしくは産業別全国組合に改組する組織方針の打ち出しを行った。棚橋はこの大会後に開かれた理事会において、新たに設置された鉱山部の主任を兼任することになり、以降鉱山における争議を担当することになった。 9月に起きたILO代表権問題において棚橋はその運動の中心となり、10月には足尾鉱山争議を指導することになった。この時、棚橋は友愛会足尾支部演説会に出席し演説をしたが、警官によって演説会は中止とされこれをきっかけとして足尾鉱山における友愛会員の膨張を生むこととなった。10月26日には遂にストライキに発展したが、一部が暴動化したため28日に会社側の要請によって警官隊が一斉検挙を行って、足尾ストライキは鎮静化に向かうことになる。11月末には日立争議が発生し、棚橋や麻生などが派遣された。この争議での演説会において棚橋は治安警察法第8条による解散命令に従わなかったとして麻生他8名と共に逮捕され、水戸監獄へ未決収監となった。この争議以降、関東における鉱山の労働運動は相次ぐこととなり、関東出張所と兼任では手が回らなくなったこともあり、麻生が鉱山部主任となり、棚橋は関東出張所専任となってその後の労働運動を指導していくことになった。
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