司法官時代
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現在の名古屋市出身。文久2年5月29日(1862年6月26日)、高木鉄蔵の次男として生まれる。1880年(明治13年)に加藤成章の養子となり、1883年(明治16年)8月に加藤家を相続した。高木家・加藤家ともに尾張藩士の家である。明治維新後は一時巡査を勤めたが、上京して明治大学の前身である明治法律学校に学ぶ。 卒業後、1885年(明治18年)12月に司法省御用掛となり浦和始審裁判所に着任。1890年(明治23年)10月新潟地方裁判所検事に任ぜられ、その後長岡区裁判所判事、高田区裁判所判事などを経て1895年(明治28年)には台湾総督府法院判官に就任。以降台湾総督府で覆審院長、同高等法院判官を歴任した。1897年(明治30年)11月、高等法院長高野孟矩らとともに辞職、郷里の名古屋市に帰って弁護士として開業した。弁護士としてはのちに名古屋弁護士会会長に挙げられている。
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