司法官から研究者に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:51 UTC 版)
1915年に東京帝大を卒業。判事検事登用試験の2次試験に1番の成績で合格し、6月からは司法官試補となる。このときの上司が、後に最高裁判所初代長官を務める三淵忠彦であった。1917年、検事任官。同年、判事任官。判事在任中の1919年、磯邊登龜(1897年6月9日 - 1952年9月16日)と結婚した。晩酌人は大審院院長であった横田国臣。 司法官の道を歩んでいた本間であったが、次第に「法に対する疑問」「判事に対する疑問」を抱くようになり、1920年に判事を辞し、東大時代の恩師であった三瀦信三の勧めにより大学昇格直後の東京商科大学に就職した。商大では当初附属商学専門部並びに予科の教授に着任。担当科目は初め民法で、のち商法に転じた。 大学昇格に合わせた拡充のため、多くの教員が留学することとなり、本間も1922年にはイギリス、アメリカ、ドイツへの2年間の留学が決定(1924年にフランスも追加)。翌年1923年1月から1925年6月にかけて欧米各地を巡り、ともに留学した同僚の大塚金之助、渡邉大輔、井藤半彌、金子鷹之助、増地庸治郎、吉田良三や、神戸高等商業学校から留学していた八木助市、坂本彌三郎、石田文次郎、田中金司、五百籏頭眞治郎、北村五良、平井泰太郎、名古屋高等商業学校の宮田喜代蔵、赤松要らと、日本料理店や日本人クラブで研究会を開いたり将棋をしたりするなどして交流した。ただ、加藤由作は本間が将棋などに誘っても応じずに一人で研究していたという。 帰国直後、上野に構えた新居が全焼するという不運に見舞われている。1926年2月から商大教授も兼任。1936年から1937年まで高垣寅次郎の後任として第2代東京商科大学附属図書館長も務めた。1931年に大学予科及び専門部を廃止するとの政府案に、教員、学生、如水会などが猛反発し、学生が一ツ橋の校舎に籠城した籠城事件においては、民法の常盤敏太教授らとともに錦町署長と交渉し、警察の包囲を解かせ、拘束されていた庭野正之助(のちに日本鉱業社長)や後藤達郎(のちにホテルオークラ社長)ら学生を解放させることに成功した。 この時期、本間は法政大学の教授も兼任し、1935年に法政大学フェンシング部が創設される際には中心的な役割を果たした。翌1936年10月23日に大日本アマチュアフェンシング協会(現在の日本フェンシング協会)が発足した際には、初代理事長に就任した(- 1938年)。また、法政大学ではこのほか1938年から1939年にかけて野球部の部長も務めていた。
※この「司法官から研究者に」の解説は、「本間喜一」の解説の一部です。
「司法官から研究者に」を含む「本間喜一」の記事については、「本間喜一」の概要を参照ください。
- 司法官から研究者にのページへのリンク