原潜の普及とパッシブ戦への移行 (1960〜1980年代)
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「対潜戦」の記事における「原潜の普及とパッシブ戦への移行 (1960〜1980年代)」の解説
一方、このような技術・装備の改良と並行して、理論・戦術に関する洞察も進められていた。第2次世界大戦の実戦環境下で収拾された様々なデータが整理されるとともに、数学・海洋学等の学術的アプローチも加味した研究が行なわれた。海洋音響学の進歩や、平時からの海洋観測によって海底地形・底質や潮流・海流、地磁気、水質(水温・塩分など)などの情報を蓄積することで、エビデンスに基づく探知予察が可能となりつつあった。1961年にはSOSUSが実戦段階に移行し、パッシブ手段による広域対潜捜索の基礎が整えられた。 そしてこの探知予察を実戦に応用するため、アメリカ海軍においては対潜戦のシステム化が志向されるようになった。対潜哨戒機用としては、A-NEWシステムが1960年から海軍航空開発センター(英語版) (NADC,Naval Air Development Center)(現:海軍航空戦センター(英語版)(NAWC,Naval Air Warfare Center))により開発を開始し、1963年にはUNIVAC-1830(CP-823/U)を用いた試作機が完成、実用機であるCP-901/ASQ-114(UNIVAC 1830A)を搭載したP-3Cは1969年より部隊配備を開始した。なおシステム名称は、単に「新たなASW武器システム」(a new ASW weapons system)をもじったものと言われている。 さらに1964年9月には、当時対空戦(AAW)を主眼として就役し始めていた海軍戦術情報システム(NTDS)を対潜戦向けに発展させる試みとして、ASWSC&CS(ASW Ship Command and Control System)に関するSOR(Specific Operational Requirement)が発出された。これは基本的にプロトタイプに過ぎなかったが、実用試験のためにASWSC&CSを搭載した3隻のHUK(Hunter/Killer)任務群を編成することが決定され、1966年から1967年にかけてエセックス級空母の一隻である「ワスプ」を対潜空母として改装し(CVS-18)、また当時建造中だったガーシア級フリゲートのうち「ヴォーグ」(FF-1047)および「コーレシュ」(FF-1049)がASWSC&CSを搭載するよう改設計を受けた。この試作成果は後にスプルーアンス級駆逐艦やオリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲートなどのNTDSにおいて統合された。 そして1969年には、海軍艦隊気象数値センター(FNWC)により、全世界規模で対潜戦を支援する探知予察システムとして、固定翼哨戒機向けのASRAPS(Acoustic Sensor Range Prediction System)および回転翼哨戒機向けのSHARPS(Ship Helicopter Acoustic Range Prediction system)が稼働を開始した。 一方、作戦環境においては、1960年代末から1970年代にかけて、アメリカ海軍は、仮想敵であったソビエト連邦軍における潜水艦の原子力推進化と潜水艦発射対艦巡航ミサイル(USM)の配備という新たな状況変化に対応する必要性に直面していた。原子力潜水艦は対潜水上艦の追尾を振り切りうる機動性を備えており、USMの配備は、直衛線を突破されずとも船団が攻撃される危険性を示していた。 これに対処するため、1960年代後半より、アメリカ海軍は対潜作戦をアクティブ・オペレーションからパッシブ・オペレーションに転換するよう志向するようになった。当時、艦装備のソナーはアクティブ・モードでの運用を主としていたことから、まずDASHによりパッシブ型ソノブイを投射する研究(DEStroyer JEZebel system, DESJEZ)が着手されたが、1969年のDASHの運用停止に伴って、有人でより汎用性の高いSH-2 LAMPS Mk Iヘリコプターが導入されたことにより、問題は一足飛びに解決されることとなった。 またこれらと並行して、収束帯 (CZ) を利用しての遠距離探知が可能なソナー・システムの開発も進められた。艦体装備方式ではソナー・アレイの全長に限度があることから、このような制約をもたない曳航式のソナー・システムの戦闘艦への配備が計画された。これは、SURTASS計画と並行して、ETAS (Escort Towed Array Sensor) として開発されることとなった。まず、初期の曳航ソナー・システムであるAN/SQR-15 TASSが、1973年から1974年にかけてブロンシュタイン級フリゲートなど一部の艦に実験的に配備された。しかし、これは装備艦の戦術的行動をあまりに大きく制約されることから、最終的に撤去されていた。この経験から、アメリカ海軍は、戦闘艦に装備した場合に、より柔軟な運用が可能であることが必要であると考えるようになり、これを反映して、計画名はのちに、戦術曳航ソナー・システムに変更された。 海上自衛隊が初参加した1980年の環太平洋合同演習(リムパック80)の時点で、アメリカ海軍は既にパッシブ・オペレーションへの移行をほぼ完了しており、日本側に大きな衝撃を与えた。演習期間中、アメリカ海軍の対潜戦術に従って行動した「あまつかぜ」においては、実働11日間の演習中、アクティブ・ソナーの発振は、接敵直前のわずか10分間のみであったとされている。
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