西南アジア
南西アジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 00:06 UTC 版)
「ヘンリー・ローリンソン (初代準男爵)」の記事における「南西アジア」の解説
1840年、ローリンソンはカンダハールの政務官に任じられた。彼はこの職に3年留まり、第一次アフガン戦争(1839年 - 1842年)の展開の中で、政治工作においても、また戦闘における勇猛さにおいても多くの功績を上げ、1844年にはバス勲章コンパニオンを受章した。 偶然の成り行きから、ローリンソンはインド総督の個人的知遇を得、オスマン帝国支配下のアラビアに赴く政務官に任命された。こうしてバグダードに定着したローリンソンは、楔形文字の研究に没頭した。当時のローリンソンは、相当の困難や、個人的リスクを伴ってではあったが、ベヒストゥン碑文の完全な転写を作成できるようになっており、内容の解読にも成功していた。サー・オースティン・ヘンリー・レヤードとともにニネヴェの遺跡を訪問するなど、様々な探検家たちへの聞き取りによって得られた豊富な地理的知識に加え、碑文について計り知れない価値をもつ資料を収集し、ローリンソンは1849年に休暇をとってイングランドに帰国した。 1850年6月、ローリンソンは「古代ペルシア語、バビロニア語、アッシリア語の楔形文字によって刻まれた碑文の解読の鍵の発見者。メソポタミアおよび中央アジアの文献学、古物学 (antiquities)、地理学における多数の論文の著者」として王立協会フェローに選出された。 ローリンソンは、そのままイギリス国内に2年間留まり、1851年にベヒストゥン碑文に関する回顧録を出版し、中佐に昇進した。ローリンソンは、バビロニア、サバア王国、サーサーン朝などに由来する古物を大英博物館の理事会に寄付し、これに対して大英博物館はローリンソンに資金を提供して、レヤードが始めていたアッシリアやバビロンにおける発掘作業を、ローリンソンが継続できるようにした。1851年、ローリンソンはバグダードに戻った。彼の指揮の下、発掘作業は進められて、貴重な結果を得たが、中でも楔形文字の最終的な解読、翻訳に大いに寄与することになった遺物の発見は、特に重要であった。楔形文字の解読におけるローリンソンの最大の功績は、個々の記号が文脈によって何通りもの読み方をするということの発見であった。 1855年、騎乗中の事故を機に、ローリンソンはイングランドへの帰国を早める決心をして、同年中にイギリス東インド会社の職を辞した。帰国したローリンソンは、バス勲章ナイト・コマンダーを受章し、東インド会社のクラウン・ディレクター (crown director) に任じられた。
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「南西アジア」の例文・使い方・用例・文例
- 時々、ガウアの家畜化した種類とされる南西アジアの雄牛
- 北アフリカと南西アジアの暑い砂漠にすむひとこぶラクダ
- 地中海の東海岸の南西アジアにある古代の国
- 南西アジアのアラビア半島のほとんどを占めている絶対君主国
- 南西アジア、北東アフリカ、および南東ヨーロッパの、トルコのスルタンの位
- 多肉多汁で食用の濃い緑色の葉のために広く栽培される南西アジアの植物
- 灰色がかった葉と白いか赤みがかった花をもつ南西アジアのハーブ
- 地中海東部地方と南西アジアの多年生の低木で、つぼみはケーパーとして使われる
- ペルシャという,南西アジアにあった国
- カナーンという,南西アジアにある地域
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