北欧諸国の近代化
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詳細は「汎スカンディナヴィア主義」、「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題」、および「第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」を参照 デンマークの啓蒙思想的改革を遂行したフレデリック6世はナポレオン戦争の後、著しく減衰した国力の回復に注力したが再興は容易ではなかった。通商政策に阻まれて主力であった穀物を中心とした輸出産業がままならなくなり、商工業の疲弊と不振を招いた。しかし、1830年代に入り西欧諸国の産業革命が進行するに従って穀物価格の高騰が発生し、デンマークの経済も回復の兆しを見せるようになった。生活が豊かになるにつれて勢力を伸張させていった国民たちは団結意識に目覚めるようになり、1842年には国民自由党を、1846年には農民党を結成するに至った。国民主義、自由主義の機運が高まっていく時代の流れを明察したクリスチャン8世は自由憲法の制定の必要性を感じ取っていたが、同時に湧き上がったシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題の解決に力を割かれたため、彼の在位中に実現には至らなかった。1848年にフレデリク7世が即位するとシュレースヴィヒがデンマーク領であることが宣言された。ホルシュタイン公国はこの宣言に対して反乱を起こし、キールに臨時政府を設けて独立を宣言した。デンマークが反乱の鎮圧に動くと臨時政府はドイツ連邦に援けを求めたため、これを契機にデンマークとプロイセン王国との間でデンマーク戦争が勃発した。戦況はプロイセン優位で進んでいたがロシアやイギリスの介入により膠着状態に陥り、1852年にロンドン議定書が取り交わされ、一応の決着を見た。しかし、クリスチャン9世が即位すると特別憲法を制定してシュレースヴィヒ、ホルシュタイン両国の併合を画策したため、再び反乱が勃発し、これを支援するプロイセン、オーストリアとの間で第二次デンマーク戦争に発展した。プロイセンのオットー・フォン・ビスマルクの外交政策によりデンマークは孤立化し、1864年、両国に関する一切の権利を破棄するウィーン条約が締結され、一連の問題の終結を見た。 シュレースヴィヒ、ホルシュタインを失ったデンマークは、「外に失いしものを内にて取り戻さん」の言葉に象徴されるように、未開のユトランド半島北部の開拓に乗り出した。軍人のエンリコ・ダルガスは1866年デンマーク・ヒース教会(da)を設立し、ヒースに覆われたユトランド半島北部に植林を行い、沃野にし、経済復興を促した。また、教育制度の進展、農民のための貯蓄銀行の設立などはデンマークの経済発展を促した。1870年代にはアメリカ合衆国の安価な穀物に負け危機になったものの、イギリスの酪農製品の需要の高まりに応じ、穀物から酪農への産業構造の転換を行い、国民所得は増加し、1890年代の第二次産業革命につながるのであった。 スウェーデンでは1809年のカール13世の即位と共に立憲君主制を規定した新憲法が制定され、民主化が大きく前進したが、戦争の爪痕は深く、厳しい状況にあった。1818年に即位したカール14世はこうした国内経済の建て直しと緊張していた国際関係の円滑化に尽力し、1830年代に入るころには景気が徐々に好況を示すようになった。オスカル1世もカール14世の方針を引き継いだ治世を行い、ギルドの廃止、自由貿易の認可、民間銀行法の設立など、前近代的で産業の発達を抑制するくびきとなっていた障害の排除に乗り出し、民主化を一層推し進めた。 19世紀ベルナドッテ朝時代は、国内では武装中立を表明し欧州の情勢に対しては中立化が試みられたが、オスカル1世や次代カール15世の治世下ではデンマークにおけるシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題やクリミア戦争など北欧の平和は危機を迎えていた。スウェーデンは、デンマークとの結びつきを深め、汎スカンディナヴィア主義の牽引者となって欧州列強に対抗した。汎スカンディナヴィア主義は、ドイツ統一運動と衝突し、スウェーデンを中心とした北欧統一運動が盛んとなり、中世カルマル同盟の再興を目指したが、汎スカンディナヴィア主義の挫折と共に終焉した(汎スカンディナヴィア主義は、スウェーデン人やデンマーク人だけでなくノルウェー人も参加していた。この運動の理念の消滅は、北欧の自立化を促進し、ノルウェー独立の一因になったともいえる)。 キール条約によってスウェーデンとの同君連合を結成したノルウェーではマグヌス・ファルセンによってエイズヴォル憲法が制定され、国会に政治の中心を置き、立憲君主制が規定され、国民の基本的人権の確認がなされた。これによってノルウェーではスウェーデン王を統治者に戴きながらも国会と内閣による自治が可能となり、民主化が大きく進んだ。フランスで起こった7月革命の影響によって国民が強い政治意識を持つようになると、1869年には農民や市民を代表する革新派と呼ばれる議員たちによって自由党が結成された。この結果、保守派の勢力は衰勢に向かい、1884年、自由党を立ち上げたヨハン・スヴェールップがはじめて首相に任じられ、政党政治が発足した。政治の発展に伴い産業経済も急速に進展し、特にイギリスを手本として開始された紡績、マッチ、醸造といった諸産業は大きく伸張した。同時に漁業や海運業も1870年代に入る頃には商船保有量がイギリスに次ぐ規模となるほどの著しい発展を見せた。ここにきてスウェーデンの主導権を廃する動きが再燃し、独立運動へとつながっていくこととなった。
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