初期の客車と貨車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 01:45 UTC 版)
炭鉱用のトロッコから出発した貨車は、馬車鉄道用に連結運行ができるようにしたり、簡単な手ブレーキを取り付けたりといった改良が行われていき、蒸気機関車で運行する本格的な鉄道が登場した後も同じような貨車が用いられることになった。 これに対して客車の開発は遅れ、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道の開業記念式典では、ほとんどの乗客は石炭輸送用の貨車に乗っていた。しかし、1両だけ貴賓客を乗せるための特別な車両が造られ、「エクスペリメント号」 (Experiment) と名づけられた。これが世界で最初の客車である。長物車のようなフラットな貨車の上に木造の小屋を載せただけのもので、左右それぞれ3つずつの窓があり、16 - 18人程度の乗客が乗ることができた。スプリングはまだなく、乗り心地はきわめて悪いものであった。 その後も客車の開発は後回しにされ続け、初期の鉄道では馬車に使われていた車両を、車輪もそのままで貨車に載せただけで客車として使用していた。しかしすぐに車輪を取り外して客室のみを貨車に載せる方式に移行した。このため、各車室ごとに外に出るドアが取り付けられており、車内での行き来は全くできなかった。御者が座るための客室外の席もそのまま残されており、車掌はこの席に座って乗務していた。 リバプール・アンド・マンチェスター鉄道開業の頃の客車は、一等車は前述したような馬車の客室を利用した構造であった。これに対して二等車は、無蓋貨車の上にベンチを並べて、申し訳程度に覆いをつけて風雨を凌げるなど、現在のトロッコ車輌に類似したようになっていた。三等車になると、単なる貨車がそのまま用いられており、座席も用意されなければテント程度の屋根すら付いていなかった。初期の鉄道では信号システムの未発達から事故が多発していたが、万一事故の際には三等車に乗っている客はたちまち車外に放り出されて死傷する運命にあった。 こうした状況を改善するために、イギリスでは1844年鉄道規制法が制定された。この法律では、屋根と座席のある三等車を連結したすべての駅に停車する列車を、すべての路線において毎日上下最低1本ずつ運転することを鉄道会社に対して義務付けていた。また運賃や運転速度についても一定の水準を満たすように規制していた。これと引き換えに三等車の収入については税金を免除されたが、鉄道会社は二等車の客が三等車に転移するとして不満であり、嫌々ながらこの規制を受け入れることになった。こうして設定された屋根・座席付きの三等車を連結した列車は議会列車と呼ばれ、当初は早朝や深夜の、他の列車が線路を使わない時間帯に1日1本だけ走っていたが、やがて鉄道会社間の競争によりこの三等車は一般的なものとなっていった。 このようにヨーロッパでは馬車の車体を基本として鉄道の客車が開発されたため、その後の発展においても馬車の流儀が適用された。より車体の長い客車が開発されても、それは単に馬車の客室を前後にいくつか連結しただけのものであり、車内での客室間の行き来は考慮されていなかった。両側のドア1組に付き、前後に向かい合わせの座席が設置され、それぞれ3人程度が座るようになっていた。客車の床は高い位置にありプラットホームは低かったので大きな段差が生じ、車体の脇には乗り込むのを助けるステップが全長に渡って設置された(イギリスは例外的にホームが客車ドアとほぼ同じだった)。馬車と同様に、屋根の上に荷物を載せていたが、蒸気機関車から飛ぶ火の粉によって炎上するといった事故がたびたび起きていた。 客室間の車内での連絡ができない客車は、走行中に密室となるという問題を抱えていた。フランスで1860年に、イギリスで1864年に、相次いで客室内で殺人事件が発生し、終着駅で被害者の死体が発見されるという事態になり、社会的な不安を巻き起こした。旅行者は見知らぬ他人と同室になることを恐れ、特に女性の一人旅は若い男性と同室しないように注意が払われるようになった。後述するように、この頃既にアメリカでは、車端部にドアがあり客室中央に前後方向に通路が通されていてその両側に座席が並ぶ、現代的な客車が使用されるようになっており、それはヨーロッパでも知られていたが、文化的な問題(19世紀当時は欧州にとって米国は後進国と見做されており、後進国の技術を導入することを嫌う関係者が多かった)からかヨーロッパでの導入はなかなか進まなかった。とりあえずの対策として、隣の客室の様子が見える覗き窓が付けられて、1864年の殺人事件の犯人の名前にちなんで「ミューラーの窓」と称されるようになった。スイスの鉄道でこの頃、客室間を移動できるようにする室内のドアが付けられた車両があるが、通行できるようにしたことで客室内の静穏を乱すとの批判があった。やがて、通路を車両の片側に寄せて、その脇に各客室が並んでおり、通路と客室の間はドアで仕切られているタイプのコンパートメントが普及するようになった。ヨーロッパでアメリカ流の中央通路式の客車が普及するのはだいぶ後の時代になってからで、ヨーロッパの客室内の静穏性維持に対する要求の強さを示している。 一方、貨車については当初は鉄道会社ではなく荷主が所有する私有貨車が中心で、最低限の設備があればよいと劣悪な車両が荷主によって購入され、保守も最低限なままに使われていた。こうした劣悪な車両による事故が多発したため貨車の標準化が要求され、一部の鉄道会社では私有貨車の買い上げによる質の向上が図られた。当初はすべて木造であったが、1841年のグレート・ウェスタン鉄道から鉄製の枠組みが用いられるようになった。この頃の貨車は二軸車または三軸車で、全長は5 - 6 m程度、積載重量は二軸車で6 t、三軸車で9 tであった。屋根は幌でできていて、幌馬車隊のようであったという。
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