初期の実験と第二次世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 06:53 UTC 版)
「JATO」の記事における「初期の実験と第二次世界大戦」の解説
ロケットを使用してグライダーを離陸させる初期の実験は1920年代のドイツで行われており(リピッシュ エンテ)、後に英空軍とドイツ空軍の双方で第二次世界大戦中にこの装置が導入された。英国の装置は、ドイツの偵察機に対するある程度の防衛のためにかなり大型の固体燃料ロケットを使用して航空機(典型的な機種はホーカー ハリケーン)をCAMシップとして知られる商船の船首に据え付けた短いランプから射出するというものであった。燃焼後にロケットは機体後部から投棄され、海面に落下後に沈んだ。任務が終了すると操縦士は可能であれば友軍占領地まで飛行するか、護衛艦船の1隻に拾い上げられることに望みを託してパラシュートで脱出した。2年にわたる期間でこの装置は僅か9回しか使用されなかったが、ドイツ軍機の8機撃墜を記録し1名の搭乗員を失った。 ドイツ空軍もこの手法を自軍の小型爆撃機と1940年の英国侵攻作戦用に用意され、東部戦線への補給にも使用された巨大なメッサーシュミット Me 321「ギガント」グライダーの補助推進離陸に使用した。Me 321は3機の爆撃機に曳航されて離陸していたが、貨物を搭載した場合その離陸距離は非常に長くなっていた。戦争後期になり連合国軍の攻撃により使用可能な滑走路の長さがかなり短いものになってくると航空機の離陸距離の問題は特に重要になってきた。ドイツが使用した装置の典型的なものは、本質的にはほぼ純粋の過酸化水素であるT液の燃焼で稼動するヴァルター HWK 109-500 「シュタルトヒルフェ」(Starthilfe)ロケットエンジンであった。離陸後に投棄されるとロケットエンジンの前部に取り付けられたパラシュート・パックが開傘し、ロケットエンジン自体は再利用することができた。1937年にベルリンの東70 kmのノイハルデンベルクにある戦時には予備飛行場だった広大な飛行場で最初の実験がテストパイロットのエーリヒ・ヴァルジッツの操縦でハインケル He 111を使用して行われた。ドイツのその他の実験的なJATOの利用は、「ハイマートシュッツァー」(Heimatschützer)と呼ばれるより短時間で敵爆撃機編隊の高度まで上昇できるように改造された特別製のメッサーシュミット Me262のような迎撃戦闘機を補助推進する目的のものであった。これには3タイプのRATOがあり、全てが液体燃料を使用するものであった。3タイプの中から2タイプの「ハイマートシュッツァー」版Me 262の試作機が製作され、飛行テストを行った。 1939年の初めに米国科学アカデミーは、ロケット補助推進による航空機の離陸に関する研究のためにセオドア・フォン・カルマンとグッゲンハイム航空研究所のロケット研究グループに対し1,000USドルを支給した。このJATO研究は、アメリカ政府から資金援助を受けた最初のロケット研究であった。1941年にはアメリカ海軍との契約でJATOを生産するためリアクション・モーターズが設立された。
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