元・明・清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 12:57 UTC 版)
13世紀初頭、モンゴル高原を制しこの地の諸部族をまとめ上げたモンゴル部は、金を滅ぼし中国華北を征服。国号を元とし、南宋を平らげここに中国全土を統一した。これにより、中国においてチベット仏教系の美術が制作されるようになった。特筆すべきは、中国本土においてチベット仏教の尊格の金銅仏が作られるようになったことである。この流れは、続く明や清でも続いた。『元代画塑記』(『経世大典』の一部)は、ネパールの仏工阿尼哥(アルニカ)とその弟子の劉元が数多くの仏像制作に携わっていたと言及しており、特に劉元は梵像(チベット系仏像)と道教美術の制作にも携わっていたとしている。このことから、この時代の工房では、漢像と梵像の両形式の制作だけではなく、宗教を超えて道教とも相互に直に影響を与えあう関係にあったことがうかがえる。 14世紀、明が漢族の朱元璋はよって興され、元はモンゴル高原へと放逐された。明初期においては、チベット仏教への弾圧が行われたが、のちには仏教保護政策に転換し、チベット仏教と中国仏教の交流も進んだ。この時代の石造美術に名品は少ないが、塑造や銅造といった粘塑素材を扱ったものには優れたものが見られる。現存する遺構は以下のものが挙げられる: 大慧寺 双林寺 五台山殊像寺「騎獅文殊菩薩像」 広勝寺 また、この時代以降に現存する作例として、乾漆造、鉄造がある。 16世紀末、明から自立した満州(現在の中国東北部)の女真族国家、後金は、国号を清と改め17世紀にかけて中国統治を完成させた。歴代の皇帝たちは、政治的および個人的な動機で仏教を保護した。順治帝は禅に傾倒したものの、彼の後継者である康熙帝は父祖からの信仰であったチベット仏教を推進し、文殊皇帝を自称した 。しかし、仏教に対する清朝の後援が最高潮に達したのは乾隆帝の治世でのことだった。彼は膨大な数のチベット様式の宗教的作品を制作させ、その多くは彼を僧形で描いている 。さらに、乾隆帝は造営者でもあった。1744年、彼は自身の生家でもあった雍和宮(北京)をチベット仏教の僧院として改装させ、仏画、仏像、織物、石碑を寄進した 。また、須弥福寿之廟(英語版)(承徳市)とその中に収められた品々は、乾隆帝によって成された、中国におけるチベット仏教様式の受容のひとつの完成形といえる。 1795年に乾隆帝が退位したのち、宮廷でのチベット仏教の隆盛は陰りを見せる。過去の研究では、清の歴代皇帝によるチベット仏教保護策の背後にあった動機は、主に内政的なものであり、満州、モンゴル、チベットとの結びつきを強化する手段に過ぎなかったと解釈されてきたが、近年の研究ではこの考え方は批判的に検討されている。 清代に制作された仏教美術は、チベット様式と中国様式の特異な融合をみせた。図像や構図においてはチベット的なアプローチが取られる一方、装飾面(雲や装束)においては中国らしさが際立っている。 また、碑文は多くの場合、中国語、満州語、チベット語、モンゴル語、サンスクリット語など多言語で併記された。絵画は鮮やかで刺激的な色彩で描かれていることが多い 。 薬師佛 広勝下寺壁画 1319年頃(元代) メトロポリタン美術館所蔵 妙応寺(英語版)白塔 至元16年(1279年)創建 全高50m 中国本土に建設された最初のラマ塔。ネパール王族の出身であるアルニカの指導の元で建立が行われた。 准胝観音像 明代 『墮胎產亡嚴寒大暑孤魂眾』水陸画の一幅 明代 水陸画とは三教の価値観を反映した宗教画で、仏教・道教の諸神の力によって餓鬼道に堕ちた人々を救済することを目的とした水陸法会に用いられた。 黄檗宗頂相 17世紀(清代) クリーブランド美術館 蔵 最上段の僧侶は隠元隆琦であると判明しているが、全ての僧侶が同定されているわけではない。 『羅漢図』 金廷標画 清代(18世紀) チベット仏教の儀式に用いられたトゥンカル(梵:シャンカ、śaṅkha)、「全包金法螺」 清代
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