中野牧とは? わかりやすく解説

中野牧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 05:57 UTC 版)

小金牧」の記事における「中野牧」の解説

中野牧(なかのまき)は現在の松戸鎌ケ谷白井の各市におよび、初富五香・六実三分して開墾された事、一本椚牧吸収した事が示すように、享保縮小後も、小金牧中、最大の牧であった縮小前の牧の範囲については、『宮本2012』にあるが、図によって初期の牧の範囲には多少相違があり、初期範囲厳密な特定の難しさを示す。 幕府は中野牧の馬を将軍乗馬用い将軍鹿狩行い幕末フランスから将軍贈られナポレオン三世の馬飼育するほど、中野牧を最重視した享保以降金ヶ作陣屋置かれ下野牧とともに幕府直轄となった後述)。松戸市小金原は中野牧のごく一部である。将軍鹿狩のため、国立公文書館等に多く資料がある。 『旧事考』に、縦は東で3里、西で2里、横1里、牡牝約300、捕駒の地が中澤別に俗に日暮という幕府騎乗の牧があり、牡牝約300、捕駒の地は金ヶ作とある。 『日本地誌提要』に、下野牧まとめて東西2810間、南北凡3里1842間とある。 1687(貞亨4)年、松尾芭蕉鹿島詣鹿島紀行)』に「やはたという里を過ぐれば、かまがひの原という廣き野あり(略)いとあはれ也(略)野の駒所得がをにむれありくまたあはれ也」とあり、日暮れ頃、布佐着いた事から、市川市八幡から下野牧と中野牧の間、厳密に吸収される前の一本椚牧通り印西牧通過したことになる。この日の句に、野をよんだ曾良の「花の秋草に食飽野馬かな」がある。 1765(明和2)年、『房総叢書収録『金ケさく紀行』は、牧監の命で牧馬払下げの証明関し金ヶ作を訪れた記録で、船橋から市川大野大町新田経て金ヶ作に至る事、牧師日暮に住む事等が記されている。 1805(文化2)年、秋里籬島木曽路名所図会』に鎌ヶ谷大仏と、近く野馬土手と似た土塁と馬がある。 1814文化11)年、『江戸叢書収録の釈敬順『十方遊歴雑記 江戸惣鹿子名所大全』に、木下の路筋は鎌ヶ谷より白井までのニ里余の間、皆小金原続きで、馬が何匹もいて、広い野のため、道がいくつあるか知らない記され、『木曽路名所図会』とよく一致する。 1825(文政8)年、渡辺崋山は『崋山全集収録四州眞景紀行之部』に「釜谷放牧、原縦四十里横二里或は一里と云、即小金に続くどぞ」と記しスケッチ残した1830文政13)年、『東都近郊図』には、ヶ沢集落の東に「牧アリ」とある。 1845(弘化2)年、前掲江戸近郊図』には、金ヶ作に「野馬役所」と「牧」の文字また、根木内近くに「小金原新田」の集落を示す記載があり、小金牧ごく一部である狭義小金原地名存在を示す。鎌谷近くに「カマカハラ」の文字、道ノ辺近くに「一本」の集落を示す記載がある。 1852(嘉永5)年、歌川国芳は、あくまで頼朝の狩として、『源頼朝富士之嶺牧狩之図』を描いており、前述川柳絵も中野牧を描いた可能性が高い。前述嘉陵紀行』の日ぐらし山・五助原・白子は、御囲場があり三方谷津日暮・字五助捕込のあった白子に当たる。谷津と今も一部残る仕切土手によって中野牧内が分けられていた事を示す。 1867(慶応3)年、ナポレオン三世の馬の飼育については該当項目参照。馬の到着前から、現白井市名主で中野牧の目付牧士川上次郎右衛門ほか30人横浜行きフランス人から飼育伝習受けたと、白井市広報しろい』に、5月15日に、野馬奉行綿貫右衛門牧士、ほかに、別当という馬係26人に、伝習御用命じられたと、『千葉県の歴史』にある。牧士らは、5月18日横浜行き27日戻って来た時には全員洋装になっていた。馬の横浜到着新暦5月29日である。7月27日(旧6月26日)、江戸城大手門下乗外において贈呈式が行われた。伝習半年及んだため、牧士何度交代している。片桐一男青山学院大学)は、中野牧・下野牧牧士によるアラビア馬引受け管理記している。御勘定奉行亜刺比亜小金表江率移候義ニ付申上置書付』、1867(慶応3)年7月小金原々『乍恐以書付奉願上候(外国馬茂小金牧江放被遊候風聞之儀ニ付)』の文書が残る。 1868慶応4)年、『千葉県の歴史』『広報しろい』によると、1月22日3月の2回に分けてナポレオン三世の馬26頭のうち、23頭が江戸から五助木戸御囲正式には中野牧厩詰用所移された。26頭の内訳は、1888年農商務省農務局『輸入種牛系統取調書』によると、牡11頭・牝15頭、2頭は将軍の馬として江戸城留められ、移送前か後かは不明だが、2月18日に1頭が病死したため、3月に中野牧厩詰用所での飼育が開始された馬は23頭である。馬は高木村建てられ厩舎で、外国人2名の下、すべて洋式飼育されたと三橋彌記している。中野牧厩詰用所には、囲い場、厩、詰所があった。五助木戸御囲とあり、五助木戸北側享保期に新田となっていたため該当しない。東は五香経て五香六実さらに高木村になったが、御囲ではなく該当しない。西は金ヶ作で該当する可能性は低い。南の区画は、除外する要因がなく、字御立場の南は字御囲で、厩舎の場所として最も整合性が高い。現在の陸上自衛隊五香駐屯地で、駐屯地内を横切る松戸鎌ヶ谷市にあった付近可能性が最も高い。4月には、襲撃遭いアラビア馬一部洋式馬具奪われたが、4月28日には無事な馬の一部、牡10頭が江戸収容された。元々、牡馬11頭のため、略奪ごく一部で、また、中野牧での飼育もこの頃までである。

※この「中野牧」の解説は、「小金牧」の解説の一部です。
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