中野牧
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中野牧(なかのまき)は現在の松戸・柏・鎌ケ谷・白井の各市におよび、初富・五香・六実と三分して開墾された事、一本椚牧を吸収した事が示すように、享保の縮小後も、小金牧中、最大の牧であった。縮小前の牧の範囲については、『宮本2012』にあるが、図によって初期の牧の範囲には多少の相違があり、初期の範囲の厳密な特定の難しさを示す。 幕府は中野牧の馬を将軍の乗馬に用い、将軍が鹿狩を行い、幕末にフランスから将軍に贈られたナポレオン三世の馬を飼育するほど、中野牧を最重視した。享保以降、金ヶ作陣屋が置かれ、下野牧とともに幕府直轄となった(後述)。松戸市小金原は中野牧のごく一部である。将軍の鹿狩のため、国立公文書館等に多くの資料がある。 『旧事考』に、縦は東で3里、西で2里、横1里、牡牝約300、捕駒の地が中澤、別に、俗に日暮という幕府騎乗の牧があり、牡牝約300、捕駒の地は金ヶ作とある。 『日本地誌提要』に、下野牧とまとめて、東西凡28町10間、南北凡3里18町42間とある。 1687(貞亨4)年、松尾芭蕉『鹿島詣(鹿島紀行)』に「やはたという里を過ぐれば、かまがひの原という廣き野あり(略)いとあはれ也(略)野の駒所得がをにむれありくまたあはれ也」とあり、日暮れ頃、布佐に着いた事から、市川市八幡から下野牧と中野牧の間、厳密には吸収される前の一本椚牧を通り、印西牧を通過したことになる。この日の句に、野をよんだ曾良の「花の秋草に食飽野馬かな」がある。 1765(明和2)年、『房総叢書』収録『金ケさく紀行』は、牧監の命で牧馬払下げの証明に関し金ヶ作を訪れた記録で、船橋から市川大野・大町新田を経て金ヶ作に至る事、牧師が日暮に住む事等が記されている。 1805(文化2)年、秋里籬島『木曽路名所図会』に鎌ヶ谷大仏と、近くの野馬土手と似た土塁と馬がある。 1814(文化11)年、『江戸叢書』収録の釈敬順『十方庵遊歴雑記 江戸惣鹿子名所大全』に、木下の路筋は鎌ヶ谷より白井までのニ里余の間、皆小金原の続きで、馬が何匹もいて、広い野のため、道がいくつあるか知らない旨記され、『木曽路名所図会』とよく一致する。 1825(文政8)年、渡辺崋山は『崋山全集』収録『四州眞景紀行之部』に「釜谷原放牧、原縦四十里横二里或は一里と云、即小金に続くどぞ」と記し、スケッチを残した。 1830(文政13)年、『東都近郊図』には、栗ヶ沢集落の東に「牧アリ」とある。 1845(弘化2)年、前掲『江戸近郊図』には、金ヶ作に「野馬役所」と「牧」の文字、また、根木内近くに「小金原新田」の集落を示す記載があり、小金牧のごく一部である狭義の小金原の地名の存在を示す。鎌谷近くに「カマカハラ」の文字、道ノ辺近くに「一本椚」の集落を示す記載がある。 1852(嘉永5)年、歌川国芳は、あくまで頼朝の狩として、『源頼朝公富士之嶺牧狩之図』を描いており、前述の川柳絵も中野牧を描いた可能性が高い。前述『嘉陵紀行』の日ぐらし山・五助原・白子は、御囲場があり三方が谷津の日暮・字五助・捕込のあった白子に当たる。谷津と今も一部残る仕切土手によって中野牧内が分けられていた事を示す。 1867(慶応3)年、ナポレオン三世の馬の飼育については該当項目参照。馬の到着前から、現白井市の名主で中野牧の目付牧士川上次郎右衛門ほか30人が横浜に行き、フランス人から飼育伝習を受けたと、白井市『広報しろい』に、5月15日に、野馬奉行綿貫夏右衛門と牧士、ほかに、別当という馬係26人に、伝習御用が命じられたと、『千葉県の歴史』にある。牧士らは、5月18日に横浜に行き、27日に戻って来た時には全員が洋装になっていた。馬の横浜到着は新暦5月29日である。7月27日(旧6月26日)、江戸城大手門内下乗橋外において贈呈式が行われた。伝習は半年に及んだため、牧士は何度か交代している。片桐一男(青山学院大学)は、中野牧・下野牧の牧士によるアラビア馬の引受けと管理を記している。御勘定奉行『亜刺比亜馬小金表江率移候義ニ付申上置候書付』、1867(慶応3)年7月小金原続村々『乍恐以書付奉願上候(外国之馬茂小金牧江放被遊候風聞之儀ニ付)』の文書が残る。 1868(慶応4)年、『千葉県の歴史』『広報しろい』によると、1月22日と3月の2回に分けて、ナポレオン三世の馬26頭のうち、23頭が江戸から五助木戸御囲、正式には中野牧厩詰用所に移された。26頭の内訳は、1888年、農商務省農務局『輸入種牛馬系統取調書』によると、牡11頭・牝15頭、2頭は将軍の馬として江戸城に留められ、移送前か後かは不明だが、2月18日に1頭が病死したため、3月に中野牧厩詰用所での飼育が開始された馬は23頭である。馬は高木村に建てられた厩舎で、外国人2名の下、すべて洋式で飼育されたと三橋彌が記している。中野牧厩詰用所には、囲い場、厩、詰所があった。五助木戸御囲とあり、五助木戸の北側は享保期に新田となっていたため該当しない。東は五香を経て五香六実村さらに高木村になったが、御囲ではなく該当しない。西は金ヶ作で該当する可能性は低い。南の区画は、除外する要因がなく、字御立場の南は字御囲で、厩舎の場所として最も整合性が高い。現在の陸上自衛隊五香駐屯地で、駐屯地内を横切る松戸・鎌ヶ谷市境にあった道付近の可能性が最も高い。4月には、襲撃に遭い、アラビア馬の一部と洋式馬具が奪われたが、4月28日には無事な馬の一部、牡10頭が江戸に収容された。元々、牡馬が11頭のため、略奪はごく一部で、また、中野牧での飼育もこの頃までである。
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