中華人民共和国の人口政策史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 中華人民共和国の人口政策史の意味・解説 

中華人民共和国の人口政策史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 07:21 UTC 版)

一人っ子政策」の記事における「中華人民共和国の人口政策史」の解説

中華人民共和国の人口政策史は三転四転と紆余曲折し、苦難の道のりであった1949年建国直後中華人民共和国では、人口の多いのは重要な財産であるとの楽観的な人口思想のもと、人口増加政策進められた。社会主義社会人口問題など存在しないという主張がされる一方で、「人口幾何級的に増加するが、食糧算術等差)級的にしか増加しない」というマルサス人口論資本主義擁護の最も反動的な理論であるとされた。 1953年中国初めての人口センサスが行われたが、その結果衝撃的なものであった人口センサス実施前は4億人から5億人と見込まれていたが、実施してみると6億193万人国外華僑留学生人口を含む)という、予想より1億人多い結果出た。さらに農業危機にもぶつかったこともあり、中国人口増加政策は、政策転換余儀なくされた。そのため1954年から1957年には、計画出産が公式に奨励された。1957年第1期全国人民代表大会第4回において「新人口論」を提出し人口統制説いた1953年実施され第1回全国人口調査は、全国人口性別年齢民族構成都市農村在住別に区分し、その比率実態をはっきりさせた。これは大変にいいことだったが、人口政策をより健全なものにし、科学者研究工作進めるのを助けるためには、出生死亡結婚離婚移動などの人口動態についてさらにしっかりとした統計行い完璧な統計公布する必要がある。(中略産児制限実施して人口管理するには、まず第一に幅広い宣伝によらなければならない。それによって広範な農民大衆産児制限重要性理解させ、産児制限方法実際にできるようにし、さらに一方では、早婚の害と晩婚の利を、それに男子おおむね25歳女子23歳が適当であることを宣伝する必要がある。(中略計画出産実行人口管理するために最も好ましく、最も効果大き方法だが、最も重要なことは避妊幅広く宣伝することで、人工的な妊娠中絶絶対に避けなければならない。それは一つ殺生であり、母体内で形作られ嬰児にはすでに生存権があり、母体にとってよくない場合をのぞき、一般にこのようなことをすべきでないからである。 — 『人民日報』、1957年7月5日 しかし、これも長く続かなかった。1958年6月から「大躍進」が始まり積極的に経済拡大させようとする政策がとられた。前述馬寅初北京大学学長は、ブルジョア右派分子として厳しく批判され1960年3月学長職を追われた。この後、「大躍進」の失敗と、3年連続自然災害により、食糧危機発生しても、出生抑制主張することは人民飢餓対す危機感かきたてることになるとの「政治的配慮」から、計画出産への政策転換はなかなか行われなかった。 ようやく1962年出生率ピークになり、人口問題が相当深刻になってから、1962年中央地方通じて計画出産指導機構設けられ1964年計画出産弁公室になった。しかし、折しも「文化大革命」開始され計画出産運動中断されてしまう。1965年から1971年までのわずか6年間で人口純増1億2691万人達し1840年アヘン戦争から人民共和国成立までの109年間の人口増にほぼ等しい数の純増となった1971年初め周恩来首相の提唱計画出産活動始動し文革終結後1972年頃から農村含めたより広範な計画出産活動再開された。1973年8月国務院に「計画出産指導小組」が設立され、「晩婚晩産1組夫婦子供2人まで」が提唱された。1960年第の計画出産運動大都市のみにとどまったのに対し1970年代のそれは農村巻き込み全国レベル出生率急減明らかな効果示した1978年当時中国社会科学院院長であった胡喬木は、「1977年国民1人あたりの平均食糧は、1955年前の水準にしか相当しない食糧生産伸びは、人口伸びにしか相当しない」と指摘した現代化早期進めていくためには基盤作りとして人口管理必要性説くこの発言衝撃発言であり、「一人っ子政策導入大きな契機となったまた、この胡の指摘は、当時中国社会主義農業政策根幹である「人民公社方式が国の食糧増産という課題解決しなかったことを歴然と判明させることとなり、「生産責任制」という資本主義的な制度の導入根拠ともなった同年弾道ミサイル開発者だった技術者宋健は、『成長の限界』などマルサス主義書籍知識をもとにトップダウンによる強制的な人口削減策を提唱し中国共産党首脳部好意的に受け入れられた。「2080年までに人口3分の1減らさなければならない」とする宋の主張は、1979年成都行われた会議において政策となり、銭信忠責任者とした中華人民共和国衛生部中心として、不妊化手術刑罰用いた人口管理政策実施した。ただし、正式な一人っ子政策」の提出1980年9月出来事であった

※この「中華人民共和国の人口政策史」の解説は、「一人っ子政策」の解説の一部です。
「中華人民共和国の人口政策史」を含む「一人っ子政策」の記事については、「一人っ子政策」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「中華人民共和国の人口政策史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中華人民共和国の人口政策史」の関連用語

中華人民共和国の人口政策史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中華人民共和国の人口政策史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの一人っ子政策 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS