中華人民共和国の人口政策史
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「一人っ子政策」の記事における「中華人民共和国の人口政策史」の解説
中華人民共和国の人口政策史は三転四転と紆余曲折し、苦難の道のりであった。 1949年の建国直後の中華人民共和国では、人口の多いのは重要な財産であるとの楽観的な人口思想のもと、人口増加政策が進められた。社会主義社会は人口問題など存在しないという主張がされる一方で、「人口は幾何級的に増加するが、食糧は算術(等差)級的にしか増加しない」というマルサス人口論は資本主義擁護の最も反動的な理論であるとされた。 1953年中国で初めての人口センサスが行われたが、その結果は衝撃的なものであった。人口センサス実施前は4億人から5億人と見込まれていたが、実施してみると6億193万人(国外華僑、留学生人口を含む)という、予想より1億人多い結果が出た。さらに農業危機にもぶつかったこともあり、中国の人口増加政策は、政策転換を余儀なくされた。そのため1954年から1957年には、計画出産が公式に奨励された。1957年の第1期全国人民代表大会第4回において「新人口論」を提出し、人口統制を説いた。 1953年に実施された第1回全国人口調査は、全国の人口の性別、年齢、民族構成、都市と農村の在住地別に区分し、その比率と実態をはっきりさせた。これは大変にいいことだったが、人口政策をより健全なものにし、科学者が研究工作を進めるのを助けるためには、出生、死亡、結婚、離婚、移動などの人口の動態についてさらにしっかりとした統計を行い、完璧な統計を公布する必要がある。(中略)産児制限を実施して人口を管理するには、まず第一に幅広い宣伝によらなければならない。それによって広範な農民大衆に産児制限の重要性を理解させ、産児制限の方法を実際にできるようにし、さらに一方では、早婚の害と晩婚の利を、それに男子はおおむね25歳、女子は23歳が適当であることを宣伝する必要がある。(中略) 計画出産の実行は人口を管理するために最も好ましく、最も効果が大きい方法だが、最も重要なことは避妊を幅広く宣伝することで、人工的な妊娠中絶は絶対に避けなければならない。それは一つに殺生であり、母体内で形作られた嬰児にはすでに生存権があり、母体にとってよくない場合をのぞき、一般にこのようなことをすべきでないからである。 — 『人民日報』、1957年7月5日 しかし、これも長く続かなかった。1958年6月から「大躍進」が始まり、積極的に経済を拡大させようとする政策がとられた。前述の馬寅初・北京大学学長は、ブルジョア右派分子として厳しく批判され、1960年3月に学長職を追われた。この後、「大躍進」の失敗と、3年連続の自然災害により、食糧危機が発生しても、出生抑制を主張することは人民の飢餓に対する危機感をかきたてることになるとの「政治的配慮」から、計画出産への政策転換はなかなか行われなかった。 ようやく1962年、出生率がピークになり、人口問題が相当深刻になってから、1962年に中央・地方を通じて計画出産指導機構が設けられ、1964年に計画出産弁公室になった。しかし、折しも「文化大革命」が開始され、計画出産運動は中断されてしまう。1965年から1971年までのわずか6年間で人口の純増は1億2691万人に達し、1840年のアヘン戦争から人民共和国成立までの109年間の人口増にほぼ等しい数の純増となった。 1971年初め、周恩来首相の提唱で計画出産活動が始動し、文革終結後の1972年頃から農村を含めたより広範な計画出産活動が再開された。1973年8月に国務院に「計画出産指導小組」が設立され、「晩婚、晩産、1組の夫婦に子供2人まで」が提唱された。1960年第の計画出産運動が大都市のみにとどまったのに対し、1970年代のそれは農村を巻き込み、全国レベルの出生率の急減に明らかな効果を示した。 1978年当時の中国社会科学院院長であった胡喬木は、「1977年の国民1人あたりの平均食糧は、1955年前の水準にしか相当しない。食糧生産の伸びは、人口の伸びにしか相当しない」と指摘した。現代化を早期に進めていくためには基盤作りとして人口管理の必要性を説くこの発言は衝撃の発言であり、「一人っ子政策」導入の大きな契機となった。また、この胡の指摘は、当時の中国社会主義農業政策の根幹である「人民公社」方式が国の食糧の増産という課題を解決しなかったことを歴然と判明させることとなり、「生産責任制」という資本主義的な制度の導入の根拠ともなった。 同年、弾道ミサイルの開発者だった技術者の宋健は、『成長の限界』などマルサス主義の書籍の知識をもとにトップダウンによる強制的な人口削減策を提唱し、中国共産党の首脳部に好意的に受け入れられた。「2080年までに人口を3分の1減らさなければならない」とする宋の主張は、1979年に成都で行われた会議において政策となり、銭信忠を責任者とした中華人民共和国衛生部を中心として、不妊化手術や刑罰を用いた人口管理政策を実施した。ただし、正式な「一人っ子政策」の提出は1980年9月の出来事であった。
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