レコンストラクション、権利剥奪と人種差別(1865年 - 1929年)
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「ルイジアナ州の歴史」の記事における「レコンストラクション、権利剥奪と人種差別(1865年 - 1929年)」の解説
南北戦争の後、ルイジアナ州を含め南部の大半は北部の指揮する軍政府の監督下に置かれた。ルイジアナ州はテキサス州と同じグループに入り、第5軍管区として管理された。このレコンストラクションの期間、奴隷は解放され男性は選挙権を与えられた。アフリカ系アメリカ人は、法の前に平等という手段と共に市民としての生活を始めた。解放奴隷と戦前から自由だった有色自由人の双方は教育、家族の安全および仕事でより進歩した生活を送り始めた。同時に戦後の大きな社会的不安定さがあり、多くの白人は積極的に敗北に抵抗していた。 1870年代、戦争の結果に反対した白人たちが反体制的活動を加速し、州内の政治力支配を取り戻そうとした。ホワイトリーグのような白人武装勢力が1874年に結成され、暴力やあからさまな暗殺を用いて共和党員をその役職から追い出し、アフリカ系アメリカ人を脅して投票を行えないようにし、その仕事を管理し、移動を制限した。1874年のホワイトリーグの仕業とされる暴力行為の中にクーシャッタの虐殺があり、このとき、6人の共和党役職者、州上院議員の家族4人および目撃者である解放奴隷20人を殺した。 後に5,000人のホワイトリーグが、ウィリアム・ピット・ケロッグ州知事の辞任を要求した後で、3,600人の都市警察とニューオーリンズの州兵と戦った。ホワイトリーグは、1872年の論争があった選挙での民主党候補者マッケナリーと交代させることを望んだ。連邦軍が到着する前に、短時間州庁舎と市庁舎を占領した。1876年、白人民主党員はルイジアナ州の支配を取り戻した。 1880年代を通じて、白人民主党員は有権者登録と選挙をより複雑なものにすることで、黒人と貧乏白人の有権者登録を減らし始めた。彼等は人種差別の制度化された形態を強要した。 1898年、白人民主党員の特権階級が支配的な議会は、黒人登録有権者数を減らすことを目的として、人頭税、居住条件、および文字識別試験のような有権者登録規定を有する新しい権利撤廃憲法を成立させた。その影響は即座にまた長く続いた。1896年時点で130,334人の黒人有権者が名簿に載っており、白人有権者とほぼ同数だった。これは州内人口が黒人と白人ほぼ同数だったことを反映していた.。 1900年の州内人口のうち47%、652,013人がアフリカ系アメリカ人であり、そのうちニューオーリンズにいる多くは有色のクレオール人で南北戦争の前に少なからぬ数であった自由黒人の子孫だった。新しい憲法が執行されて2年後の1900年には、州内で有権者登録された黒人はわずか5,320人しかいなかった。この権利剥奪のために、1910年には黒人や有色人の間でも教育や文字識別能力が上がっていたにも拘らず、黒人の有権者は730人のみだった(資格のあるアフリカ系アメリカ人男性の0.5%未満)。白人民主党員は一党支配体制を築き、20世紀に入っても数十年間州内その体制を続けた。 19世紀の著名な合衆国最高裁判所判例である「プレッシー対ファーガソン事件」判決は人種分離が(意図的に)不平等という結果にならない限り合法であるとしたが、これはルイジアナ州から提起された訴訟の結果だった。 権利剥奪の結果としてルイジアナ州のアフリカ系アメリカ人は実質的に代表権を持たず、学校や公共事業には不適切な予算となり、陪審員となることができず、地方、州あるいは連邦政府に代表を送ることができず、差別された状態ではその利益や条件の悪化にも注意が払われなかった。それでも彼等は独自の生活と制度を作り続けた。 1915年、合衆国最高裁は「グィン対アメリカ合衆国事件」の判決で「祖父条項」を無効にした。この裁判はオクラホマ州で始められたものだったが、ルイジアナ州や他の南部州は文字識別試験から白人有権者を除外する類似した条項を使った。州議会は公的登録人に「理解」を示すことのできる潜在的有権者に対する新しい規定を成立させた。この仕組みは実際に、黒人の大半を有権者名簿から排除しておくことに有効だった。1923年までにルイジアナ州は白人のみの予備選を制度化し、一党支配の州での選挙に関わることにすらも黒人を完全に排除した。 20世紀の初期数十年間、大移動の期間に何千ものアフリカ系アメリカ人がルイジアナ州を離れ、北部の工業化された都市に移住した。ワタミゾウムシの蔓延と農業問題で小作人や農夫から職を奪っていた。農業の機械化は労働力の需要を無くしていた。 オペルーサスは、ニューヨーク州の社会福祉担当部署が1854年から1929年まで都市の孤児を再定住させるために手配した孤児列車の少なくとも3つの停車場だった。そこは伝統的にフランス、スペイン、アカディア、アフリカおよびフランス領西インド諸島の遺産と伝統を引き継ぐカトリックの中心だった。ルイジアナ州の家庭が2,000人以上のカトリックの孤児を引き取り田舎の農業社会で生活させた。オペルーサス市は、ル・ヴュー・ビレッジにある昔の鉄道操車場に孤児列車博物館(全米で2箇所目)を建設している。孤児列車の子供たちを指向した最初の博物館はカンザス州にある。
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