レコンストラクションの時代と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 09:46 UTC 版)
「チャールズ・サムナー」の記事における「レコンストラクションの時代と死」の解説
サムナーはジョンソン大統領のレコンストラクション政策に強く反対し、南部に寛大すぎると考えていた。ジョンソンは下院で弾劾を受けたが、上院の議決では1票差で有罪とできなかった。 ユリシーズ・グラント大統領は1870年にサムナーの手厳しい敵対者になった。グラントはドミニカ共和国の併合についてサムナーの賛成を得たものと思い込んでいた。 サムナーは常にイギリスでの人気を大切にしていたが、イギリスが南北戦争中に中立を守れなかったことに対して非難する調停役という立場に立ったときそれを惜しげもなく犠牲にした。サムナーは「国民の非難の声」に重きを置いた。イギリスが南軍に対して交戦国の権利に従ったことは戦争の期間を長引かせ、計り知れない損失をもたらしたと考えた。それ故にイギリスは単に、イギリスの港で南軍用に艤装された南軍の艦船アラバマ や他のクルーザーによってもたらされた損害の補償を求められるだけでなく、戦争を長期化させたことによる莫大で無限の他の損害にたいしても補償を求められるべきだと主張した。サムナーは代償としてカナダを渡してくれることを期待した(ジュネーヴ調停会議でこれら「国民の主張」は放棄された)。 サムナーは大統領からの圧力もあって、1871年3月、1861年以来多くの労力を払って務めてきた上院外交関係委員会の議長の席から降りた。この屈辱の主要な原因は、サムナーがサントドミンゴを併合するグラントの計画を妨害したことに対するグラントの執念深さであった。サムナーは共和党とも袂を分かち、1872年の大統領選挙には進歩的共和党のホレイス・グリーリーを推した。 1872年、サムナーは南北戦争の戦闘名を軍隊の連隊旗につけるべきではないという議案を上院に提案した。マサチューセッツ州議会はこの戦闘旗議案を「国に忠誠な兵士を侮辱するもの」と非難し、「共和国の人民に対する謂れの無い糾弾だ」とも言った。詩人のジョン・グリーンリーフ・ホイッティアが指導しそのような非難の取り消しを求める努力が1年以上も続けられ効果が無かったが、1874年早くに撤回された。サムナーの周りの親しい仲間に語った最後の言葉は「私の公民権法を救え」だった。 チャールズ・サムナーは1874年3月11日、ワシントンD.C.で死んだ。アメリカ合衆国議会議事堂の円形広間に棺が安置され、マサチューセッツ州ケンブリッジのマウント・オーバーン墓地に埋葬された。 サムナーは政治の世界の学者であった。その時代の政治的都合主義にその行動を合わせようと仕向けられることは決してなかった。「原則の奴隷、私には党の主人はいらない」という言葉は上院に登壇するようになった時の誇りを持った公言である。レコンストラクション実行のためにサムナーはほとんどその才能を示さなかった。預言者であっても建設者ではなかった。公務員の改革について議会に初めて提案したのはサムナーだった。妥協を非難し逃亡奴隷法の撤廃を要求し解放を主張し奴隷制の終結にいたる闘争を始める主要人物たらしめたのはサムナーの不屈の勇気だった。
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