レコンストラクション:1865年-1877年
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「バージニア州の歴史」の記事における「レコンストラクション:1865年-1877年」の解説
バージニア州は、北軍の将軍ジョン・M・スコフィールドが改革派の会議で草案が作られた憲法に関する採決の承認を拒んだので、1869年まで軍政の支配下に留まった。グラント大統領は1869年に、憲法に関する採決、元反逆者から選挙権を取り上げる剥奪条項に関する採決、および州役職者の剥奪条項に関する採決を要求した。改革派は元将軍でスコフィールドに近い暫定知事であったヘンリー・H・ウェルズを指名した。民主党指導者は新機軸を出す時であると言ったウィリアム・マホーンであった。すなわち、民主党は解放された奴隷の公民権や選挙権を含め、戦争の結果を受け入れねばならなかった。マホーンはボルティモア・オハイオ鉄道を強力に過ぎるとして非難し、州の繁栄に繋がるバージニア州に基盤を置く新しい鉄道を要求した。中庸で実業を重んじる多くの共和党員に対してその持論が通った。 マホーンは知事候補にギルバート・C・ウォーカーを指名して当選させ、剥奪条項は成立しなかった。新しいアンダーウッド憲法は210,585票対9,136票で承認され、一方剥奪条項はそれぞれ124,715票対83,458票、124,360票対84,410票で否決された。バージニア州は他の南部州がレコンストラクション時代に経験したような政治腐敗や人種問題を経験しなかったが、バージニア州の白人は概して南部人の態度に典型的な苦渋を分かち合うことになった。
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レコンストラクション 1865年-1877年
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「サウスカロライナ州の歴史」の記事における「レコンストラクション 1865年-1877年」の解説
アフリカ系アメリカ人は長い間州内人口の多数を占めてきた。レコンストラクションの間にサウスカロライナ政府で初めて顕著な役割を演じ始めた。戦前や戦中の政界にあった反北部感情にも拘わらず、州の指導的世論形成者ウェイド・ハンプトン3世を含むサウスカロライナの住民は、白人市民がアンドリュー・ジョンソン大統領の言う合衆国再加盟の条件を受け入れるものと信じた。しかし、1865年に州議会は「黒人法(英語版)」(英語: Black Codes)を通して北部人を怒らせ、解放奴隷に対して奴隷制に準じるものを課そうとしていると告発された。サウスカロライナの黒人法は次のように記述されていた。 役務を契約する有色人は「従僕」と呼ばれ、契約した相手は「主人」と呼ばれる。農場における労働時間は日曜日を除いて日の出から日の入りまでとする。黒人は日の出とともに起床すること。時間に遅れた場合はその賃金を減額され、病気で労働できない場合は食料費や看護費などを差し引く。日曜日に外出する場合も日没までにプランテーションに戻らねばならない。家付き従僕は昼夜、曜日を問わず如何なる時も呼び出しに応じること。彼らは「特にその主人、主人の家族および客に対して礼儀を尽くし行儀良く」していなければならない。その代わりに「優しく親切な待遇」を受けられるものとする。肉体におよぶ罰、その他の罰は地方判事または他の公的役人の命令で管理されるものとする。黒人が道路を彷徨したり乞食や泥棒を生活の手段としないように、ある厳格性を持った放浪者規制法が定められる。 黒人法は北部の世論を激怒させ、外見上どの州でも実行に移されることはなかった。 急進派共和党が1866年の選挙に勝利してレコンストラクションの過程を支配した。軍はあらゆる男性投票権者を登録し、選挙では解放奴隷、カーペットバッガーおよびスキャラワグの連携になる共和党政府が選ばれた。連邦政府が強制した1868年の新憲法で民主的改革が進んだ。スキャラワグはそれを支持したが、大半の白人は共和党政府を黒人の利益のみを代弁していると見なしてほとんど支持しなかった。法律で元南軍兵に武器を持つことを禁じていたが、実質的に州内で生まれた白人男性がすべてこれに該当し、特にライフルを持った黒人州兵隊がサウスカロライナの町の通りで訓練を始めると、緊張を高めるだけであった。 人種間の敵意に加えて、元奴隷が白人を裏切ったという多くの白人の感情があった。戦前、奴隷所有者は奴隷を待遇良く扱っていたので奴隷の忠誠心も得ていたと確信していた。北軍が入ってきて何千という奴隷が脱走し(多くの奴隷はそうしなかったが)、奴隷所有者は当惑した。黒人は先を争ってその新しい権利を確保しようとし、白人は黒人の権利を否定することで社会的地位にしがみつこうとした。
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