フェラーズの情報漏れを突き止めたイギリス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:28 UTC 版)
「ボナー・フェラーズ」の記事における「フェラーズの情報漏れを突き止めたイギリス」の解説
アメリカの暗号は同盟国イギリスも解読していた。そしてフェラーズ大佐が1942年2月18日に「アメリカ陸軍はイギリス軍と同じ戦域で効果的に仕事をするのが不可能であることが分かるだろう」とした暗号通信をイギリスに解読され、イギリス政府はフェラーズを「好ましからざる人物(ペルソナ・ノン・グラータ)」と判断した。ウィンストン・チャーチル首相はその1週間後、ルーズベルト大統領に外交団が使っている暗号の危険を警告したが、上記のようにアメリカ側は何の措置も執らなかった。 ロンメル上級大将のドイツアフリカ軍団がニール・リッチー中将のイギリス第8軍(Eighth Army (United Kingdom))に致命的打撃を与える中、イギリス政府暗号学校(現在の政府通信本部の前身)は、4月中旬、ドイツが中東戦域総司令部に深く食い込んでいることを突き止め、間もなくフェラーズに疑いが向けられた。6月4日には、ドイツの暗号解読で得られたウルトラ情報(Ultra)から、「良いソース」がイギリス軍部隊を訪れてアメリカ軍の戦術と否定的比較をしていることが分かり、カイロのアメリカ使節団でブラック暗号を使用している誰かである最終的論拠となった。6月10日、イギリス情報部のトップはチャーチル首相に、ドイツがカイロにいるフェラーズの軍事使節団が使っている暗号を解読し、危ういと報告した。ヴィガラス作戦とハープーン作戦の失敗で、ワシントンは6月14日、カイロ駐在武官の暗号が危ういことを認め、チャーチル首相は激怒した。 第2回ワシントン会談の最中の6月21日、ガザラの戦いでドイツアフリカ軍団がイギリス第8軍に勝利してリビアのトブルク要塞が陥落し、守備隊3万3000名が捕虜となった。この落胆の中でチャーチル首相はフェラーズ事件が与えた便宜を理解し、「良いソース」がまだロンメル上級大将に最高機密情報を供給し続けていることを暴露した。この首脳会談の直後、参謀総長ジョージ・マーシャル大将はカイロに緊急警報を送った。 ヒトラーとベニート・ムッソリーニはロンメル元帥(トブルク攻略で昇進)に、アレクサンドリアを占領し、中東とその戦略的石油埋蔵量、スエズ運河を枢軸国で管理する命令を出した。ヒトラーは6月28日、「アレクサンドリア占領は、全イギリス国民を激怒させ(シンガポール陥落には裕福な階級しか関心がなかった)、チャーチルに対する騒乱を起こさせるだろう。カイロの米大臣(駐在武官)が、彼の下手に暗号化された海底電信を通じて、イギリスの軍事計画について我々によく知らせ続けてくれることだけが期待された」と熱狂的に発言した。「良いソース」は翌29日から沈黙し、ロンメル元帥は突然、暗闇に投げ出された。 アメリカ陸軍省は6月19日、北アフリカ軍事使節団に代わってアメリカ中東陸軍(United States Army Forces in the Middle East)を設置。イギリス情報部からフェラーズ事件の情報を与えられていた司令官ラッセル・マクスウェル(Russell Maxwell)少将は、「好ましからざる人物」フェラーズの配置を終わらせることを求めるイギリス政府の要求を支持して、7月7日、参謀長代理(acting chief of staff)フェラーズ大佐を解任した。その際にマクスウェル司令官は、フェラーズをG2将校とすることは正当化できないと感じるとし、陸軍省に完全な報告をするため、フェラーズの帰国が最も望ましいとした。9日には情報部長ジョージ・ストロング(George Strong)少将がイギリス情報部との機密の相談の後、マーシャル参謀総長に、フェラーズを相談のため帰国させることが大いに望ましいと伝えた。フェラーズがワシントンに戻ると、ストロング部長は情報部の英帝国部門の一時的任務につけた。フェラーズの中東専門のG2将校としてのキャリアは終わった。 しかしルーズベルト大統領自身は、マーシャル参謀総長と陸軍省に真っ正面から反対して、イギリス第8軍はドイツアフリカ軍団に勝てそうもないと激しく非難し、北アフリカでの重要なアメリカ軍介入を主張するフェラーズの報告書を真剣に受け止め、チャーチル首相がトブルク陥落の報を受けた6月21日の首脳会談で、アメリカ陸軍数個師団の中東展開を示唆する基礎となった。1942年の海峡横断作戦「スレッジハンマー作戦」(Operation Sledgehammer)と1943年の海峡横断作戦「ラウンドアップ作戦」(Operation Roundup)のためアメリカ軍戦力をイギリス本土に集結させる「ボレロ作戦」(Operation Bolero)を進めていたマーシャル参謀総長はフェラーズの影響力上昇を喜ばず、6月23日の首脳会談後、ルーズベルト大統領に対する秘密覚書に「フェラーズは貴重な観戦武官ですが、彼の責任は戦略家のそれではなく、彼の見解は私と作戦部の見解と正反対です」と書き、イギリスの促す北アフリカ侵攻作戦「ジムナスト作戦」に反対していた。 米英首脳会談後、イギリス政府がスレッジハンマー作戦は実施不可能と決定してアメリカ政府に通告した。これに対し統合参謀本部はアメリカの主戦力を太平洋戦線に投入する太平洋第一主義を決定したが、ルーズベルト大統領が拒否。ジムナスト作戦が「トーチ作戦」と改名されて実施され、北アフリカの枢軸国軍を東西から挟み撃ちにした。ルーズベルト大統領はフェラーズに陸軍長官から陸軍殊勲章(Distinguished Service Medal (U.S. Army))を授けた。 事件の後、英米軍の司令官の何人かはフェラーズを「おしゃべり大佐(Colonel Garrulous)」と軽蔑した。トーチ作戦準備段階からチャーチル首相にウルトラ情報へのアクセスを許されるようになっていた連合国軍最高司令官(Commander in Chief, Allied Force)ドワイト・アイゼンハワー大将(1942年6月23日まで作戦部長としてボレロ作戦を担当。24日にヨーロッパ作戦戦域司令官)はカイロ会談の際、フェラーズと交流のあった特殊作戦執行部の女性スパイ、ハーマイオン・ランファリー伯夫人(Hermione, Countess of Ranfurly)に「ボナー・フェラーズのいかなる友人も私の友人ではない」と言った。 フェラーズはマーシャル参謀総長の指揮系統にある陸軍省情報部から、統合参謀本部指揮下の戦略情報局(OSS)に配属替えの後、1943年秋、ニューギニア島ホーランジア上陸作戦準備段階で、「好ましからざる人物」と認定されたイギリスから可能な限り遠い南西太平洋戦域(South West Pacific Area)最高司令官マッカーサー大将の総司令部に転属となった。OSSでの同僚は、フェラーズを「私が出会った最も激しいイギリス嫌い」と回想している。
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