パイパー戦闘団の壊滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 04:01 UTC 版)
「バルジの戦い」の記事における「パイパー戦闘団の壊滅」の解説
12月18日午前6時にパイパー戦闘団はスタブローへの攻撃を開始した。スタブローの戦力はアメリカ第526機甲歩兵大隊B中隊と対戦車砲1個小隊に過ぎず、大隊長のポール・J.ソリス中佐は橋を爆破しようとしたが失敗し、その間にパンターが橋に突入してきた。そのパンターに対戦車砲の砲撃が集中し撃破されたが、撃破されたパンターは慣性でそのまま橋を渡り切り、アメリカ軍が設置していたバリケードを破壊した。その後にドイツ軍戦車が続き、続々と橋を渡ってスタブローに突入してきた。ソリスはドイツ軍が橋を渡ったら部隊を撤退させるように命じ、自らは二個小隊を率いて、北の森にある大規模な燃料集積所に向かった。燃料集積所にはガソリンが124,000ガロンもあり、ソリスはガソリンが捕獲されるのを阻止し、なおかつバイパー戦闘団の侵攻を妨害するため、ガソリンをスタブローの市街に流してそれに火を放つように命令した。スタブローに突入したパイパー戦闘団は、逃げ惑うスタブローの市民を虐殺しその被害者は101人も達していたが、そのときにガソリンによる火災が市街地北方に広がってパイパー戦闘団を襲ったため、パイパーは戦闘団の一時後退を命じて、一部をスタブローの抑えに残すと、戦闘団主力はアンブレブ川とサルム川(英語版)の合流点の内側にあるトロワ・ポン(英語版)に向かって前進させた。 両河川を渡河してウェルボモン(フランス語版)まで進撃すれば、ミューズ川を望む重要拠点リエージュまでは一本道であった。トロワ・ボンにはアメリカ軍第51工兵大隊C中隊の140人しかおらず、パイパー戦闘団の攻撃を受ければひとたまりもなかったが、指揮官のR.イーツ少佐はたった1門装備していたM1 57mm対戦車砲でパイパー戦闘団の進撃を阻止している間に橋梁を爆破しようと計画を立てた。やがて、爆破準備中にパイパー戦闘団19輌の戦車が1列縦隊で進撃してきたため、イーツは対戦車砲の砲撃を命じて爆破を急がせた。対戦車砲はしばらくの間パイパー戦闘団の足止めに成功したのち撃破されたが、その戦闘中の午前11:15に橋梁の爆破に成功した。このためパイパー戦闘団は北側の別のルートで西方のアビエモン(フランス語版)に向かったが、アビエモンの橋も13:00に戦闘団の目の前で爆破された。第51工兵大隊は18日の未明にトロワ・ポンに到着したばかりで、パイパーが前夜に立ち止まることなく当初計画通りに進撃していたら、アメリカ軍の橋梁の爆破は間に合わず、戦闘団は渡河に成功し、最短距離でミューズ川への前進も十分可能であったが、パイパー戦闘団は架橋機材を全く保有していなかったので、一旦ラ・グレーズ(英語版)に引き返して別のルートを探すこととした。 このときのパイパー戦闘団の戦力はV号戦車パンター23輌、IV号戦車6輌、ヴィルベルヴィント1輌と減少しており、とくに新鋭のティーガーIIは当初20輌から6輌にまで激減していた。これは戦闘損失よりむしろ故障による消耗が大きかったが、パイパーは少なくなった兵力で、翌12月19日に増援のアメリカ軍第30歩兵師団(英語版)が防衛しているストゥモン(英語版)を攻撃し、夕方まで激戦が続いたが最後は撃退されている。これがパイパー戦闘団の最大進出点となったが、この後はパイパー戦闘団は前進も後退もできなくなり、ラ・グレーズ(英語版)周辺に閉じ込められる形となった。物資が尽きて絶望的となった戦闘団の将兵は周辺の住民を虐殺し、老若男女問わず130人のベルギー国民が犠牲となった。もはや打つ手のなくなったパイパーは12月24日に装備を捨てて退却することを決意した。パイパーは捕虜のアメリカ軍少佐に、自分たちが無事に脱出できるように付近のアメリカ軍部隊に交渉できるなら少佐を含むアメリカ兵捕虜を無事に解放するといった取引をしたいと申し出たが、捕虜のアメリカ軍少佐は自分にはそのような権限はないとし、パイパーたちの人質として脱出に同行することだけは同意した。パイパーはアメリカ軍捕虜を連れて、生き残っていた部下とともに雪中を何時間も歩いたが、やがてアメリカ軍の前線にぶつかって戦闘となり、その戦闘中にアメリカ軍捕虜は脱出した。その間にパイパーたちはうまくアメリカ軍をかわして戦場から抜け出し、厳寒の川を泳いで渡るなどの末、ドイツ軍陣地に帰還したが、進撃に参加したパイパー戦闘団の将兵4,800人以上のうち、無事に撤退できた者はわずか717人だけであった。 戦後パイパーは一連の虐殺の責任を問われて、マルメディ虐殺裁判(英語版)で裁かれた。虐殺が行われたときに指揮官のパイパーはこの場におらず、パイパー自身は虐殺を命じた記憶はないと否定したが、武装親衛隊は東部戦線では日常的に捕虜を殺害しており、このときも進撃を急いでいたパイパー(あるいは他の将校)が捕虜を煩わしく感じて射殺を命じた可能性が指摘された。パイパーの副官だったハンス・グルーレ(Hans Gruhle)は、投降し移動中だったアメリカ兵らが、ドイツ軍の展開する東側ではなく北側へと行進していたため、これを捕虜ではなく戦闘部隊と誤認して銃撃したのだと証言した。被告はパイパーのほか、第6SS装甲軍の司令官ディートリヒや参謀長フリッツ・クレーマー(英語版)など73人が名を連ねたが、ドイツ軍の被告らは憎しみを募らせたアメリカ軍取調官から日常的に拷問を受けて自白を強要されていたと主張した。こうした被告人の訴えに加え、この裁判はアメリカ国内の裁判や他の軍事法廷に比べても極めて不公平なものであるとする批判が大きく、やがて裁判に関する調査委員会が設置された。当初は被告のSS隊員73人全員が有罪判決を受けていたが、1948年には被告の一部が死刑から終身刑へと減刑され、また一部は証拠不十分で釈放された。1949年に開かれたアメリカ上院での公聴会では、拷問を行ったとされる尋問官らの動機が焦点となった。彼らの幾人かは、迫害を受けてヨーロッパを脱出した後に陸軍に入隊したユダヤ系アメリカ兵だった。尋問官らは嘘発見器も用いて証言を行い、最終的に委員会では拷問などは大部分が虚偽か誇張された訴えであると判断した一方、裁判の手続きに重大な問題が多数あることも認め、判決はさらに修正されることとなる。1951年までにほとんどの被告が釈放され、残るパイパーらの判決も死刑から終身刑に減刑された。1954年にはさらに減刑が行われ、1956年にはゼップ・ディートリヒとパイパーがランツベルク戦犯収容所から釈放された。一方で、事件に対する報復で、アメリカ軍によって行われた親衛隊員への虐殺は明らかにされることはなかった。
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