スイス、ブリュッセル、プラハ、ドレスデン、パリ時代とは? わかりやすく解説

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スイス、ブリュッセル、プラハ、ドレスデン、パリ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 17:10 UTC 版)

ミハイル・バクーニン」の記事における「スイス、ブリュッセル、プラハ、ドレスデン、パリ時代」の解説

チューリヒには半年滞在しドイツ共産主義者ヴィルヘルム・ヴァイトリング親しく交流したドイツ共産主義者らとの親交1848年まで続きバクーニン自身時折共産主義者自称し、『スイス共和主義者』(Schweitzerische Republikaner) 紙に記事書いたバクーニンスイス西部ジュネーヴ移った直後ヴァイトリング逮捕された。警察押収されヴァイトリング書簡にはバクーニンの名がしばしば登場しており、これがロシア帝国警察の知るところとなる。ベルンロシア大使から帰国命じられバクーニンはこれに応じブリュッセルへと移動し、ヨアヒム・レレヴェルをはじめ、マルクスエンゲルス活動同地参加していた主要なポーランド国家主義者との邂逅果たしている。レレヴェルがバクーニン及ぼした影響多大であるが、彼らポーランド国家主義者1776年当時ポーランド分割以前)の国境線に基づく同国復活主張しており、意見衝突したバクーニンポーランド人以外の自治権も守るよう主張したのであるバクーニンはこれらポーランド国家主義者たち聖職権主義にも賛同を示さなかった。一方でバクーニン農民層の解放を彼らに呼びかけたが、支持得られなかった。 1844年バクーニン当時ヨーロッパ急進派中心地となっていたパリへ向かったマルクスアナキストピエール・ジョセフ・プルードン接触したが、特にプルードンからは大きな感銘を受け、二人の間には友情築かれた。1844年12月皇帝ニコライ1世により貴族的特権および市民権の剥奪所領没収終身シベリア流刑宣告されバクーニンロシア帝国当局から追われるとなった。これに対しバクーニン新聞改革』(La Réforme) に長い手紙送りロシア皇帝圧制者非難しロシアポーランドにおける民主主義必要性訴えた1846年3月、『立憲』(Constitutionel) に寄せた書簡ではポーランド擁護し同地カトリック教徒対す弾圧賛同した1847年11月クラクフからの避難民のうち反乱軍勝利賛同する者たちが、1830年ポーランド十一月蜂起記念する集会バクーニン招き講演行った。 この講演バクーニンポーランドロシア人民協力して皇帝立ち向かうよう呼びかけロシアにおける専制政治終焉待ち望んでいると表明。この結果フランスから追放されブリュッセルへと赴くこととなったバクーニンゲルツェンベリンスキー協力仰ぎロシア革命起こそう目論んだが、二人助力得られなかった。ブリュッセルでは再びポーランド革命家マルクスやりとりし1848年2月にはレレヴェルが組織した会合スラヴ民族未来について語り、彼らが西洋世界活力もたらす述べたこの頃バクーニンが度を越した活動走ったロシア側の工作員であったという噂が、ロシア大使によって流された。 1848年には各地革命運動起こったロシア国内そうした動き見られなかったことに失望したものの、バクーニン歓喜の念はひとしおであった暫定政府を担う社会主義者、フェルディナンド・フロコン、ルイ・ブラン、アレクサンドル・オーギュスト・レドル・ロラン、アルベール・ロリヴィエといった面々資金協力得てスラヴ連合によりプロイセンオーストリア・ハンガリー帝国トルコ支配下におかれた人々解放すべく活動開始ドイツへ向けて出発しバーデン通りフランクフルトケルン至ったバクーニンはヘルヴェーグ率いドイツ民主主義義勇隊を支援し、フリードリヒ・ヘッカーによるバーデン蜂起に加わろうと企てた失敗。この時ヘルヴェーグを批判したマルクス対立したバクーニンマルクスとの関係について、この頃から互いに良い感情持てなくなった後年になって振り返っている。 バクーニン続いてベルリン移動したが、そこからポーゼンポズナン)へ向かおうとして警察阻止された。ポーランド分割以来プロイセン支配下置かれていた同地ではポーランド国家主義者による暴動起こっていた。バクーニン予定変更してライプツィヒブレスラウ訪れプラハでは第一回汎スラヴ会議参加。だがこれに続いた蜂起は、バクーニン尽力があったにもかかわらず武力鎮圧され失敗終わったブレスラウ戻ったバクーニンだが、彼をロシア帝国側の工作員であるとする言説マルクスが再び広め証拠ジョルジュ・サンド持っている、と主張したサンドバクーニン擁護に回るとマルクスはこの発言撤回したバクーニン1848年秋、『スラヴ諸民族へのアピール』において、スラヴ革命勢力ハンガリーイタリアドイツのそれと連帯することを提案している。目的当時ヨーロッパ三大専制君主国家ロシア帝国オーストリア・ハンガリー帝国プロイセン公国の三カ国の打倒であった1849年ドレスデン五月蜂起においてバクーニン指導的役割担いリヒャルト・ワーグナーヴィルヘルム・ハイネと共にプロイセン軍抵抗バリケード戦に臨んだ。しかしケムニッツ捕らえられ13か月に及ぶ拘置期間ののちザクセン政府により死刑宣告された。ロシア政府オーストリア政府彼の身柄欲していたため終身刑減刑されたが、1850年6月にはオーストリア当局引き渡され11か月の後に再び死刑判決を受ける。結局これも終身刑減刑となり、最終的に1851年5月ロシアへ身柄送致された。 この時期について言及したワーグナー日記に「伸び放題顎ひげのような頭髪」をたくわえたバクーニン登場している。

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