スイス、ブリュッセル、プラハ、ドレスデン、パリ時代
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「ミハイル・バクーニン」の記事における「スイス、ブリュッセル、プラハ、ドレスデン、パリ時代」の解説
チューリヒには半年間滞在し、ドイツの共産主義者ヴィルヘルム・ヴァイトリングと親しく交流した。ドイツ共産主義者らとの親交は1848年まで続き、バクーニン自身も時折共産主義者を自称し、『スイスの共和主義者』(Schweitzerische Republikaner) 紙に記事を書いた。バクーニンがスイス西部のジュネーヴに移った直後、ヴァイトリングが逮捕された。警察に押収されたヴァイトリングの書簡にはバクーニンの名がしばしば登場しており、これがロシア帝国警察の知るところとなる。ベルンのロシア大使から帰国を命じられたバクーニンはこれに応じずブリュッセルへと移動し、ヨアヒム・レレヴェルをはじめ、マルクスとエンゲルスの活動に同地で参加していた主要なポーランド国家主義者との邂逅を果たしている。レレヴェルがバクーニンに及ぼした影響は多大であるが、彼らポーランド国家主義者は1776年当時(ポーランド分割以前)の国境線に基づく同国の復活を主張しており、意見が衝突した。バクーニンはポーランド人以外の自治権も守るよう主張したのである。バクーニンはこれらポーランド国家主義者たちの聖職権主義にも賛同を示さなかった。一方でバクーニンは農民層の解放を彼らに呼びかけたが、支持は得られなかった。 1844年、バクーニンは当時ヨーロッパ急進派の中心地となっていたパリへ向かった。マルクスやアナキストのピエール・ジョセフ・プルードンと接触したが、特にプルードンからは大きな感銘を受け、二人の間には友情が築かれた。1844年12月、皇帝ニコライ1世により貴族的特権および市民権の剥奪、所領の没収、終身のシベリア流刑が宣告され、バクーニンはロシア帝国当局から追われる身となった。これに対しバクーニンは新聞『改革』(La Réforme) に長い手紙を送り、ロシア皇帝を圧制者と非難し、ロシアとポーランドにおける民主主義の必要性を訴えた。1846年3月、『立憲』(Constitutionel) に寄せた書簡ではポーランドを擁護し、同地のカトリック教徒に対する弾圧に賛同した。1847年11月、クラクフからの避難民のうち反乱軍の勝利に賛同する者たちが、1830年のポーランド十一月蜂起を記念する集会にバクーニンを招き、講演を行った。 この講演でバクーニンはポーランドとロシアの人民が協力して皇帝に立ち向かうよう呼びかけ、ロシアにおける専制政治の終焉を待ち望んでいると表明。この結果フランスから追放され、ブリュッセルへと赴くこととなった。バクーニンはゲルツェンとベリンスキーに協力を仰ぎロシアで革命を起こそうと目論んだが、二人の助力は得られなかった。ブリュッセルでは再びポーランドの革命家やマルクスとやりとりし、1848年2月にはレレヴェルが組織した会合でスラヴ民族の未来について語り、彼らが西洋世界に活力をもたらすと述べた。この頃、バクーニンが度を越した活動に走ったロシア側の工作員であったという噂が、ロシア大使によって流された。 1848年には各地で革命運動が起こった。ロシア国内でそうした動きが見られなかったことには失望したものの、バクーニンの歓喜の念はひとしおであった。暫定政府を担う社会主義者、フェルディナンド・フロコン、ルイ・ブラン、アレクサンドル・オーギュスト・レドル・ロラン、アルベール・ロリヴィエといった面々の資金協力を得て、スラヴ連合によりプロイセンやオーストリア・ハンガリー帝国、トルコの支配下におかれた人々を解放すべく活動を開始。ドイツへ向けて出発し、バーデンを通りフランクフルト、ケルンに至った。 バクーニンはヘルヴェーグ率いるドイツ民主主義者義勇隊を支援し、フリードリヒ・ヘッカーによるバーデン蜂起に加わろうと企てたが失敗。この時ヘルヴェーグを批判したマルクスと対立した。バクーニンはマルクスとの関係について、この頃から互いに良い感情が持てなくなったと後年になって振り返っている。 バクーニンは続いてベルリンに移動したが、そこからポーゼン(ポズナン)へ向かおうとして警察に阻止された。ポーランド分割以来プロイセンの支配下に置かれていた同地ではポーランドの国家主義者による暴動が起こっていた。バクーニンは予定を変更してライプツィヒとブレスラウを訪れ、プラハでは第一回汎スラヴ会議に参加。だがこれに続いた蜂起は、バクーニンの尽力があったにもかかわらず、武力で鎮圧され失敗に終わった。ブレスラウへ戻ったバクーニンだが、彼をロシア帝国側の工作員であるとする言説をマルクスが再び広め、証拠はジョルジュ・サンドが持っている、と主張した。サンドがバクーニンの擁護に回るとマルクスはこの発言を撤回した。 バクーニンは1848年秋、『スラヴ諸民族へのアピール』において、スラヴの革命勢力がハンガリーやイタリア、ドイツのそれと連帯することを提案している。目的は当時のヨーロッパの三大専制君主国家、ロシア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、プロイセン公国の三カ国の打倒であった。 1849年、ドレスデン五月蜂起においてバクーニンは指導的役割を担い、リヒャルト・ワーグナーやヴィルヘルム・ハイネらと共にプロイセン軍に抵抗、バリケード戦に臨んだ。しかしケムニッツで捕らえられ、13か月に及ぶ拘置期間ののちザクセン政府により死刑を宣告された。ロシア政府とオーストリア政府が彼の身柄を欲していたため終身刑に減刑されたが、1850年6月にはオーストリア当局に引き渡され、11か月の後に再び死刑判決を受ける。結局これも終身刑に減刑となり、最終的には1851年5月にロシアへ身柄を送致された。 この時期について言及したワーグナーの日記に「伸び放題の顎ひげと藪のような頭髪」をたくわえたバクーニンが登場している。
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