シュヴェービッシュ・グミュントの歴史
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「シュヴェービッシュ・グミュント」の記事における「シュヴェービッシュ・グミュントの歴史」の解説
最初の入植の痕跡は紀元後2世紀にまで遡る。ローマ軍の国境がドナウ川を越え、150年頃に近隣のリーメスを護るために軍事基地を建設した頃である。これにより、この地に大きな民間人入植地が形成された。なかでも現在のシュヴェービッシュ・グミュントの市域にはシレンホーフ城砦が建設された。233年からアレマン人がこの国境地域に進出し始めた。ローマ人がドナウ川まで退却した後、放棄された国境地域に260年から270年頃にゲルマン人征服者たちが定住した。 パリ近郊サン=ドニ修道院の、カール大帝の名による9世紀の偽書に記された Gamundias という名称が、グミュントを指しているかは、かなり疑わしい。サン=ドニの修道院長フルラート(フランス語版、英語版)が飛び地に所領を設けたとする考古学的証拠はない。 グミュントの建設時期は、12世紀から13世紀のシュタウフェン時代であった。グミュントの都市としての現存する最初の記録は1162年のものである。かつてこの記述はシュタウフェン朝の別の都市とされていた。ここにはグミュントが「最も古いシュタウフェン都市」と記されている。ロルヒ修道院の文書には、グミュントの住民について1162年に初めて cives(都市の住民を意味する)と記述している。フリードリヒ・バルバロッサの文書中この街は burgum Gemunde と書かれている。「burgum」という概念は中世盛期には城砦や市壁で護られた都市に対して用いられた。従って、グミュントは1188年にはすでに市壁や塔で護られた都市であった。これは1162年の文書からは読み取れない。1241年の帝国租税一覧では、グミュントの税収は 152マルクで、帝国の 92 の町の中で 10位であった。シュタウフェン時代を記念して、現在ヨハニス広場にシュタウフェンの石柱が建立されている。これは1162年の最初の記録から850周年にあたる2012年に完成した。 シュタウフェン家の消滅により、グミュントは帝国都市(しばしば誤って「自由帝国都市」とされる)に昇格し、これにより帝国直轄権を獲得した。これに伴い、この街は小さな支配地域を獲得した: 本来の都市の他に、ベットリンゲン、シュプライトバッハ、イギンゲン、バルガウがその「領邦」に含まれた。これらの地区にはそれぞれ代官の所在地となり、多くは他の村をも統治した。 おそらく1400年頃に歴史書「グミュンダー・カイザークロニーク」が成立し、正式に市に献呈された。この作品はカール大帝以後の皇帝の歴史を扱っている。 1449年のヴァルトシュテッテンの戦いでグミュントとハルの部隊は、ヴュルテンベルク伯ウルリヒ5世 (ヴュルテンベルク伯)(ドイツ語版、英語版)の軍勢に打ち負かされた。同盟していたグミュントとハレの軍隊は、ヴァルトシュテッテン近郊アイヒヘルツレの、その直前に家畜の群を盗んだ報復に破壊されたレヒベルクの城からの帰途についた。この時ヴュルテンベルク軍に驚き、レヒベルクの救援に駆けつけた。 グミュントの市長パウル・ゴルトシュタイナーは1549年から1550年にグミュントの年代記を著述し、18世紀末にドミニクス・デプラーが続きを記し、19世紀初めに18巻の市の年代記が完成した。 帝国都市シュヴェービッシュ・グミュントでは、1556年から1648年までの間に少なくとも 69人が魔女狩りにあった。51件の魔女裁判が死刑判決で結審し、シュヴェービッシュ・グミュントと他の村の2人の男が告訴された。 1746年にバルガウ代官区が廃止され、ベットリンゲン代官区に統合された。アムト・シュプライトバッハには、プファールブロンの一部、フォルダーシュタイネンベルク、ヒンターシュタイネンベルク、ツィンマーバッハ、ドゥルランゲン、ムートランゲン、ヴェッツガウ、グロースダインバッハ、クラインダインバッハが含まれた。アムト・ベットリンゲンには、ヴァイラー、バルガウ、オーバーベービンゲンおよびウンターベービンゲンの一部、ラウテルンの大部分、メグリンゲンデヴァンゲンが含まれた。イギンゲンは、ヘルリコーフェン、フッセンホーフェンおよびシュトラスドルフの半分を包含した。1535年から1629年までこの他にメグリンゲン代官区が設けられ、デヴァンゲンとラウテルンがこれに含まれた。その後メグリンゲンとラウテルンはベットリンゲンに、デヴァンゲンはイギンゲンに編入された。 1803年に帝国都市グミュントの領域はヴュルテンベルク王国領となった。この街はオーバーアムト・グミュントの本部所在地となり、1938年からはシュヴェービッシュ・グミュント郡の郡庁所在地となった。 ナチの独裁が始まった1933年3月、ヘルリコーフェン通りの旧ゴッテスツェル修道院にヴュルテンベルクで最初の女子強制収容所が設けられた。秋までに50人の女性が収容され、その後別の強制収容所に送致された。1936年(1938年11月迫害運動「水晶の夜」の2年も前である)に突撃隊員がユダヤ教のシナゴーグを荒らした。この建物は1950年に取り壊された。カタリーネン通り2番地の郡立貯蓄銀行に掲げられた記念プレートがこの事件を想起させる。国家社会主義者にユダヤ人であるとみなされた約25人がホロコーストの犠牲となった。2008年にこのうち3人を追悼するストルパーシュタイン(躓きの石)がアレー通り4番地とマルクト広場26番地に設けられた。2012年にはさらに14のストルパーシュタインが設置された。 少なくとも4人のグミュント市民、ヘルマン・ケーラー、ハインリヒ・プロプスト、ゲルハルト・フォイエルレ、ロベルト・ハイトナーが第二次世界大戦中に有罪判決を受けて殺害された。この判決は、「ナチスの不公正解消に関する法律」に照らして、正義の基本的概念に反するものであり、無効とみなされる。 1905年にこの街の人口は2万人を超え、シュヴェービッシュ・グミュントは中規模都市となった。1935年にドイツ市町村法が定める都市郡 (ドイツ語: Stadtkreis) となったが、これ以後もオーバーアムト・グミュントおよびこれを引き継いだシュヴェービッシュ・グミュント郡に留まり続けた。10年後の1945年にシュヴェービッシュ・グミュントは直轄郡庁所在地 (ドイツ語: Unmittelbare Kreisstadt) となり、1956年4月1日のバーデン=ヴュルテンベルク州市町村法の発効により大規模郡庁所在地 (ドイツ語: Große Kreisstadt) となった。 その後1938年にレーネンホーフ=ヴェッツガウ地区が合併し、1969年から1975年までにさらに合併が行われて市域は拡大した。この地域再編の期間中、1973年にシュヴェービッシュ・グミュントは郡庁所在地の地位を失い、その代わりにオストヴュルテンベルク地方(ドイツ語版、英語版)の行政中心都市となった。 大規模な都市改造と、2012年のアニバーサリーに合わせた都市の刷新、グミュンダー・アインホルン=トンネル完成後に開催された2014年のランデスガルテンシャウ(州庭園博)により、この街は2016年に都市刷新に対するオットー=ボルスト賞特別賞を受賞した。約200万人が訪れた州庭園博は、バーデン=ヴュルテンベルク州の庭園博の最多来訪者記録を樹立した。この博覧会には、延べ1361人のボランティアが参加したが、そのうち60人はこの街に滞在している亡命者であった。彼らは、入場者管理を含む会場での業務に従事した。
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