ケンブリッジ大学フットボールクラブ
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「ケンブリッジ・ルール」の記事における「ケンブリッジ大学フットボールクラブ」の解説
ケンブリッジにおいてフットボールは常に人気があり、1579年にチェスタートン(英語版)において住民とケンブリッジ大学の学生との間で試合が行われた。この試合は乱闘で終了し、その結果大学のグラウンド外でフットボール(footeball)をプレーすることを禁止する命令が大学副総長によってなされた。この命令やその他の命令にもかかわらず、フットボールはケンブリッジにおいて人気であり続けた。記録によると1838年にジーザス・カレッジの校長G. E. Corrie博士は以下のように言及している:1838年に『Willisと共に歩いている時にパーカーズ・ピース(英語版)のそばを通り、40人程のガウンを着ている人々(学生)がフットボールをプレーしているのが見えた。その光景の目新しさや活発さは愉快であった!』。ラグビー校の卒業生であったアルバート・ペルは1839年に大学でフットボールの試合を開催しようとしていたが、学生の出身校でそれぞれ規則が異っていたために互いに歩み寄った規則を制定する必要があり、これがケンブリッジルールの起源となった。この初のフットボール規則の形成において果たした役割から、ケンブリッジにあるパーカーズ・ピース(英語版)は今でもサッカーファンと歴史家の神聖な芝生となっている。 1846年、シュルーズベリー校の卒業生であったH・デ・ウィントンおよびJ・C・スリングはイートン校の卒業生達と共にケンブリッジ大学にフットボールクラブを設立した。それまではわずか数試合しか開催されていなかったが、1848年にはフットボールに対する関心が再び高まっていた。いかにして1848年のルールが策定されたかという物語は後にH.C. Maldenによって1897年10月8日書かれた書簡で語られている。 私はケンブリッジトリニティ・カレッジに上がった。翌年、その頃流行っていたホッケーよりむしろフットボールを始めようとする試みがなされた。しかし、皆がそれぞれの出身のパブリックスクールで慣れた規則でプレーしようとしたため、結果は悲惨な混乱状態となっていた。私はイートン校の卒業生がラグビー校の卒業生に向かってボールを手で扱うことについてどのようにわめいていたのかを覚えている。そして、パブリックスクール卒業生からそれぞれ2名、大学代表としてパブリックスクール出身でないものからも2名が代表者として選ばれることが合意された。G. Saltと私が大学代表として選ばれた。他が誰だったか覚えていればよかったのだが。ラグビー校の一人はBurn、イートン校の一人はWhymperであったように思う。私達は全員で14名だったと思う。ハーロー、イートン、ラグビー、ウィンチェスター、シュルーズベリーの代表者である。私達はホールの後の午後四時に私の部屋に集った。長い会合が予期され、私は机を片付けペンとインク、紙を用意した。何人かは入ってくると、試験は受かったのかどうか私に尋ねた! 皆がそれぞれの出身校のルールの写しを持参するか暗記してきていて、新ルールを作る我々の歩みはゆっくりであった。投票が同数であった時に、公平な立場のSaltと私は幾度もルールを採用あるいは不採用とした。我々は午前零時の5分前に解散した。この新ルールは「ケンブリッジ・ルールズ」として印刷され、写しは配布されたりパーカーズ・ピースに掲示されたりし、非常に満足のいく働きをした。これらのルールは忠実に守られ、このルールを好まないからといってプレーをやめてしまったパブリックスクール出身の生徒については耳にしたことがない。[...] さて、この後、他の者がこれらのルールを採用し、ケンブリッジではまだ有効であったが、わずかな修正を加えてアソシエーション・ルールズとなった。フェアキャッチとフリーキック(ハーロー校ではまたプレーされている)は廃止された。オフサイドルールはよりゆるやかになった。「ハンド」はより厳しくなった; これは賢明に修正されたばかりである。 ケンブリッジ・ルールの作成者らは、パブリックスクールの様々なフットボールルールでプレー経験のある生徒に受け入れられるようなゲームを策定しようと努めた。パブリックスクールの試合は、ラグビー校の試合(手でボールを扱うこと、後方へのパス)からイートン校の試合(ドリブルを好み、厳しいオフサイドのルールがある)、チャーターハウス校(ドリブルを含み、前方へのパスが許可されていることが特徴)まで幅広いルールが含まれている。ケンブリッジ・ルールズで採用されたオフサイドルールは以下のように述べられている: もしボールが選手にパスされ、ボールが自陣ゴールの方向から来た場合、その選手の前方に3人を越える相手チームの選手がいなければ、その選手は相手チームがボールを蹴るまでそのボールに触れてはならない。また、選手は相手ゴールとボールとの間にぶらぶらと位置してはならない。(1856年、あるいはそれ以前) このルールは後に、ザ・フットボール・アソシエーションによって1867年に実質的に採用されたが、「3人を越える」の部分は「少なくとも3人」に弱められた。選手にボールの前で動くことを許可したこのオフサイドルールは後のコンビネーションゲーム(英語版)の発展に道を開いた。 ケンブリッジ・ルールズは策定された初のフットボール規則であり、現代アソシエーション・フットボール(サッカー)の前身である。このルールは、以下に見られるように、エベネザー・コブ・モーリー(英語版)によってザ・フットボール・アソシエーションのためにロンドンで起草された現代フットボール規則の作成に大きな影響を及ぼした。 ケンブリッジ・ルールズはアソシエーションが採用するのに最も望ましいと思われる。 これら(ケンブリッジ・ルールズ)は、このゲームの真の本質を最高の簡潔さと共に包含している。 ケンブリッジにあるパーカーズ・ピースには現代フットボールの成立において果たした特有の役割が以下のように記された記念碑がある。 ここパーカーズピースにおいて、18世紀、学生達はボールのキャッチと「ハッキング」を禁止し、力よりも技術を重視した簡潔なフットボール規則を定めた。これらの「ケンブリッジ・ルールズ」は1863年のフットボール・アソシエーション・ルールズに決定的な影響を与えた。 ケンブリッジ大学アソシエーション・フットボール・クラブ(英語版)は現代パスサッカーの発展において重要な役割をも果たした。このクラブは「サッカーの戦術を転換し、ほとんど単独で現代サッカーを考案した」と1882年に認められている。同時代の人々はケンブリッジは、それぞれの選手がフィールドのエリアを割り振られ、パスを基盤にして選手がチームの一部としてプレーした初の「コンビネーション」チームであったと記している。 C・W・アルコックによる、初期のフットボール競技スタイル「攻撃の的確な体系的な行動のスキーム」および「精巧なコンビネーション」の歴史に関する論考(クイーンズパークを含む「北部」チームへの言及を含む)において、アルコックは1891年に、「現代において流行しているシステムの完成、大部分は数年前に作られた。1883年のケンブリッジ大学イレブンは攻撃とともに守備において真価を発揮する体系的なコンビネーションのあらゆる可能性を見せた初めてのチームである」と記している。
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