ケンブリッジ入学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 06:59 UTC 版)
「ジョージ・マロリー」の記事における「ケンブリッジ入学」の解説
1905年10月、マロリーは歴史学を学ぶべくケンブリッジ大学のモードリン・カレッジに入り、そこでジェームズ・ストレイチー(James Strachey )、リットン・ストレイチー、ジョン・メイナード・ケインズ、ダンカン・グラント(Duncan Grant )らのいわゆるブルームズベリー・グループと親交を深めた。マロリーはケンブリッジ大学在学中にボート漕手として知られたが、8人乗りボートのオックスフォード大学との対抗戦には出場していない。 学位取得後もマロリーは1年間ケンブリッジに残り、小論『伝記作家ボズウェル』(Boswell the Biographer )を執筆した。その後、しばらくフランスに滞在したが、同地でサイモン・バッシー(Simon Bussy )がマロリーの肖像画を描いた。この絵はロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーに収められている。教師を志してイギリスに戻ったマロリーは1910年にサリー州ゴダルミング(Godalming )にあるチャーターハウス校で教鞭を執った。この時の生徒の中に、後に詩人になるロバート・グレーブス(Robert Graves )がおり、1918年のグレーブスの結婚式ではマロリーが付き添い人を務めている。 この間に登山の腕も磨き、1911年にはモンブランに挑み、モン・モディ(Mont Maudit )の前壁を征服している。1913年までにマロリーはイギリスの湖水地方にあるピラー・ロック(Pillar Rock )の登頂に成功した。このときマロリーが登ったコースは現在「マロリー・ルート」と呼ばれ、登山難易度は5a(アメリカ式では5.9)と評価されており、イギリスの山では最も難しいコースの1つである。
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