オウム神仙の会
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1982年(昭和57年)、経営塾などをやっていた人物である西山祥雲に弟子入りし「彰晃」の名をもらい、「松本彰晃」を名乗る。 1983年(昭和58年)夏(28歳)、身体を清浄なものとする阿含宗の教義などが、本来の阿含経とかけ離れていると感じ脱会。東京都渋谷区桜丘に、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した(超)能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設、松本はこのころから「麻原彰晃」と名乗り始める。と言ってそれの理由通り、前述の理由から自身が教団する事にしたのでこれを理由に、これに伴い「アシュラ・シャカ」という意味が込められている「麻原彰晃」へ改名する。 1984年(昭和59年)2月、学習塾「鳳凰慶林館」をヨガ道場「オウムの会」に変更し、5月28日には株式会社オウムを設立。石井久子によると、当時の麻原は中性的なヨーガの先生といったところで、宗教的な感じはせず命令するタイプでもなかった。 1985年(昭和60年)、神奈川県の三浦海岸で修行中に「アビラケツノミコト(神軍を率いる光の命)になれ」と啓示を受けたという。秋には空中浮揚したと称する写真が雑誌『ムー』『トワイライトゾーン』に掲載された。また、「幻の超古代金属ヒヒイロカネは実在した!?」という記事を『ムー』に掲載。岩手県にヒヒイロカネ探しに行った際、酒井勝軍の知り合いという老人から、酒井が隠していたというハルマゲドン予言を聞いた。それはハルマゲドンの時には日本から「神仙民族」が出現し、救世主となるというものであった(酒井がほんとうに語っていたのかについての真偽は不明)。 1986年(昭和61年)4月、税制上の優遇に目をつけて、ヨガ道場「オウムの会」を宗教団体「オウム神仙の会」と改称。同年7月、ヒマラヤで最終解脱と称す。すでに「武力と超能力を使って国家を転覆することも計画している。その時は、フリーメイソンと戦うことになるだろう」などと語っていたという。 当時、麻原は妻の知子と3人の娘と共に千葉県船橋市に住み、家族全員で1つの寝室を共有していた。食事は野菜中心で肉の代りにグルテンを肉状にしたものを食べたり、ちゃぶ台の上にホットプレートを置き、「野菜バーベキュー」を楽しんでいた。この船橋の家には「瞑想室」があり、宗教画が掛けられ棚には仏像が置かれていた。麻原は日に1度は瞑想室にこもり修行をしていた。棚の前にちゃぶ台を置き、麻原はそれを祭壇と呼んでいた。「形は重要じゃない。心が重要なんだ。私にとっては」というのが麻原の口癖だった。後に教団が大きくなってからも、麻原はそれを祭壇として使うほど愛着を持っていた。当時、麻原はヨーガ教室を東京都渋谷区で開いていたため、家にいることが少なかった。たまに帰宅すると強度の弱視のためテレビにくっつくように野球中継を見ていた。 このころには世田谷区の道場に住み込むようになりほとんど家に帰らなくなる。たまに麻原が帰宅すると3人の娘たちが大喜びで玄関まで走って行き、姉妹で父を奪い合っていた。次女は父の帰宅を「太陽のない世界に、太陽が来た」などと表現していた。しかし、妻の知子は麻原が滅多に帰宅しないことなどから精神不安定となり、麻原に向かってなじるようないさかいがあったが、麻原はほとんど抵抗をしなかった。三女麗華の目には、知子が麻原の宗教を信じているようには見えなかったが、麻原の著書の代筆を深夜まで行っていた。後の麻原の著書のいくつかは、知子が書いたものであった。麻原は子供に向かって「蚊に刺されると痒くていやだね。でも蚊も生きているんだよ」や「お釈迦様によれば、私たちは死後生まれ変わり、もしかしたら蚊に生まれ変わるかもしれない」などと話していたが、妻の知子は当時は信仰心を有していなかっためか、蚊を平気で殺していた。また、麻原はその頃、家族とともに発展途上国を中心によく旅行をしたが、子たちに「世界には食べ物を食べられない子も、屋根のあるところに住めない子もいるんだ。食べ物を粗末にするのはやめようね」などと諭したりしていた。
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