オウム真理教顧問弁護士
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1989年(平成元年)12月5日に出家し、教団の顧問弁護士を務めるようになった。後に殺害されるオウム被害者の会の坂本堤弁護士や、TBSビデオ問題の原因となった交渉にも参加していた。 1990年10月には国土利用計画法違反事件で逮捕され、同年12月まで拘留されている。 教団幹部・上祐史浩がロシアに滞在していた1993年(平成5年)9月から1995年(平成7年)3月までのあいだ教団のスポークスマンとして一連のオウム真理教事件における記者会見にも登場、世間に広く知られるようになった。 1994年5月9日、坂本堤の後継である滝本太郎の殺害を試み、滝本太郎弁護士サリン襲撃事件に関与。弁護士が弁護士を殺そうとした。皮肉にも、かつて薬害に心を痛めていた青山が化学兵器に関与することとなった。 同年、オウム真理教の国家転覆計画の一端とされる基本律、白い愛の戦士計画に関わる。 1995年1月4日、読売新聞が1月1日にスクープした上九一色村でのサリン関連物質検出の責任をなすりつけるため、青山らは東京・南青山の教団新東京総本部ビルで記者会見し、山梨県上九一色村の有機肥料会社社長が教団施設にサリンを撒いたとして発表、殺人未遂罪で甲府地方検察庁に告訴。 同年3月18日、地下鉄サリン事件が決定されたリムジン謀議に参加(石川公一と共に立件はされていない)。3月22日以降警察の強制捜査により続々と教団信者らが逮捕されると、弁護士という立場を生かして勾留している信者と接見した。自白をしていたオウム幹部などの被疑者たちは、青山と接見すると急に自白を拒むようになったが、捜査幹部は青山が弁護士という立場で接見交通権を悪用して「修行が足りない」等と脅して、オウム事件の露見を阻止しようとしていたと主張している。
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