オウム神仙の会・「最終解脱」とは? わかりやすく解説

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オウム神仙の会・「最終解脱」(1986-1987年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 07:35 UTC 版)

オウム真理教の歴史」の記事における「オウム神仙の会・「最終解脱」(1986-1987年)」の解説

1986年4月オウムの会オウム神仙の会改称した1986年5月麻原杉本繁郎弟子数人精進湖キャンプ場で3週間ほど修行したが、その最終日の夜、麻原は「今から私の本音を語る」と前置きして、「今の国家転覆させる」、明治維新数人から始まった将来フリーメイソンと戦うことになる、と語った1986年5月から6月にかけてヒマラヤ行き最終解脱」したとし、同時期に雑誌トワイライトゾーン』(ワールドフォトプレス刊)に「解脱への道」の連載を開始した。麻原は「1986年夏、ヒマラヤ最終解脱した」と宣伝したが、インドヒマチャル・プラデシュ州マナリ現地僧侶たちは、「そんな話は聞いたとがない」といい、ヒマラヤ仏教徒協会のヒラ・マルは「小さな街なので、麻原のような目立つ風貌の者が山にこもって修行していたら耳に入るはずだ」という。サムドン・リンポチェチベット亡命政府首相は、1986年空港日本人女性に「尊師会って欲しい」と声をかけられたので会うと、麻原はいきなり、ダライ・ラマイニシエーション受けられるよう取り計らって欲しと言ってきたが、サムドン・リンポチェ断っている。 当時麻原弟子の前で最終解脱できない悩んでいたのが、帰国直後説法最終解脱発表したので、疑い持った弟子達がやめた。弟子質問対し麻原は「だってな、俺って解脱したよな、ケイマ」と石井久子同意求め石井がうなづいて説明終わった1987年大阪道場井上嘉浩に「インド?あれはパフォーマンスだ。実は渋谷最終解脱した」と答えている。また、麻原説法で「最終解脱」は最終ではなくその先に「最終完全解脱」があるが「それは達成できなかった」と述べている。1991年頃、雑誌スパ質問に対して麻原は「だって、仏陀大勢現れ祝福してくれたんですよ」と述べるだけで、最終解脱具体的な証拠は示さなかった。のちに麻原上祐に「最終解脱は、本当1986年ヒマラヤではなくそれ以前だが、ヒマラヤと言った方が、イメージいいからそう行っている」と告白しており、上祐は「最終解脱者」は現地高僧認定されたものではなく麻原自称であり、麻原最終解脱者を演じていたのではないかという。 『トワイライトゾーン1986年6月号で麻原ヨーガ行者雨宮第二自分未来予言認めた修行者として紹介した。しかし雨宮は、麻原最終解脱したと雑誌主張したことを電話厳しくとがめ、両者決裂した1986年8月丹沢セミナーでパイロットババを招待した。このセミナーから、座っている麻原の足に礼拝するヨーガ式礼拝を行うようになり、麻原はパイロットババの足に礼拝し師弟の礼をとった。しかし、麻原は、ババ水中サマディをせず女と金要求したと不満で、のちの講話ババ嘘つきだと非難した。 この1986年夏の丹沢セミナー参加していた元ラジニーシコミューン日本支部にいた信者対し麻原サンガ出家制度作ってくれないかと依頼した信者ラジニーシ起こした事件もあったため、即答できなかったが、他の幹部からの説得もあり、渋々引き受けた最初出家者石井久子だった。同年秋、横浜市内一軒家での共同生活始まり杉本新実らのメンバーそれぞれアルバイトなどで120万円稼ぎ教団布施した。同時期、在家信者修行コース料金大きく値上げされ、「このぐらい出さなきゃ、解脱なんてできないんだ」と麻原説明した1986年11月頃、青年部設立(のちボーディーサットヴァの会)、上祐杉浦実、岐部ら10人がいた。 1987年昭和621月4日丹沢セミナーで、密教修行者焼いて殺して食べたが、これは釈迦のいう不殺生だが、そのの魂を高い世界へ上昇させるポアであり功徳だ、チベット密教では盗賊を殺すことも功徳となるとし、「グルがやれと言ったことすべてをやることができる状態、例えばそれは殺人含めてだ、これも功徳に変わる」「グルのためだった殺しだってやるよというタイプの人はクンダリニー・ヨーガに向いてる」とすでに説いていた。他にも「私も過去世においてグル命令によって人を殺してる」「人を殺すというものはできないものだ。しかし、そのカルマですらグル捧げたときにクンダリニー・ヨーガは成就する」「グルがそれを殺せと言うときは、例え相手はもう死ぬ時期来てる。そして、弟子殺させることによって、その相手ポアさせるというね、一番い時期殺させるわけだね。」とも説いた。ただし、この時点では、殺さない盗まないよこしまなセックスをしない、うそをつかない等が「無難な方法」と述べている。 1987年昭和622月頃、インドから帰国後、麻原青年部派手に動くので、青年部サンガ統合命じた1987年4月大阪支部にボーディーサットヴァの会が設立早川会長指名された。

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