オウム神仙の会・「最終解脱」(1986-1987年)
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「オウム真理教の歴史」の記事における「オウム神仙の会・「最終解脱」(1986-1987年)」の解説
1986年4月、オウムの会をオウム神仙の会と改称した。 1986年5月、麻原は杉本繁郎ら弟子数人と精進湖のキャンプ場で3週間ほど修行したが、その最終日の夜、麻原は「今から私の本音を語る」と前置きして、「今の国家を転覆させる」、明治維新も数人から始まった、将来はフリーメイソンと戦うことになる、と語った。 1986年5月から6月にかけてヒマラヤに行き「最終解脱」したとし、同時期に雑誌『トワイライトゾーン』(ワールドフォトプレス刊)に「解脱への道」の連載を開始した。麻原は「1986年夏、ヒマラヤで最終解脱した」と宣伝したが、インドのヒマチャル・プラデシュ州マナリ現地の僧侶たちは、「そんな話は聞いたことがない」といい、ヒマラヤ仏教徒協会のヒラ・マルは「小さな街なので、麻原のような目立つ風貌の者が山にこもって修行していたら耳に入るはずだ」という。サムドン・リンポチェ元チベット亡命政府首相は、1986年に空港で日本人女性に「尊師と会って欲しい」と声をかけられたので会うと、麻原はいきなり、ダライ・ラマのイニシエーションを受けられるよう取り計らって欲しいと言ってきたが、サムドン・リンポチェは断っている。 当時、麻原が弟子の前で最終解脱できないと悩んでいたのが、帰国直後の説法で最終解脱を発表したので、疑いを持った弟子達がやめた。弟子の質問に対し麻原は「だってな、俺って解脱したよな、ケイマ」と石井久子に同意を求め、石井がうなづいて説明が終わった。1987年、大阪道場で井上嘉浩に「インド?あれはパフォーマンスだ。実は渋谷で最終解脱した」と答えている。また、麻原は説法で「最終解脱」は最終ではなく、その先に「最終完全解脱」があるが「それは達成できなかった」と述べている。1991年頃、雑誌スパの質問に対して、麻原は「だって、仏陀が大勢現れて祝福してくれたんですよ」と述べるだけで、最終解脱の具体的な証拠は示さなかった。のちに麻原は上祐に「最終解脱は、本当は1986年のヒマラヤではなく、それ以前だが、ヒマラヤと言った方が、イメージがいいからそう行っている」と告白しており、上祐は「最終解脱者」は現地の高僧に認定されたものではなく麻原の自称であり、麻原は最終解脱者を演じていたのではないかという。 『トワイライトゾーン』1986年6月号で麻原はヨーガ行者雨宮第二を自分の未来予言を認めた修行者として紹介した。しかし雨宮は、麻原が最終解脱したと雑誌で主張したことを電話で厳しくとがめ、両者は決裂した。 1986年8月の丹沢セミナーでパイロットババを招待した。このセミナーから、座っている麻原の足に礼拝するヨーガ式礼拝を行うようになり、麻原はパイロットババの足に礼拝し、師弟の礼をとった。しかし、麻原は、ババが水中サマディをせず女と金を要求したと不満で、のちの講話でババは嘘つきだと非難した。 この1986年夏の丹沢セミナーに参加していた元ラジニーシコミューン日本支部にいた信者に対し、麻原はサンガ(出家)制度を作ってくれないかと依頼した。信者はラジニーシが起こした事件もあったため、即答できなかったが、他の幹部からの説得もあり、渋々引き受けた。最初の出家者は石井久子だった。同年秋、横浜市内の一軒家での共同生活が始まり、杉本や新実らのメンバーはそれぞれアルバイトなどで120万円を稼ぎ、教団へ布施した。同時期、在家信者の修行コースの料金も大きく値上げされ、「このぐらい出さなきゃ、解脱なんてできないんだ」と麻原は説明した。 1986年11月頃、青年部を設立(のちボーディーサットヴァの会)、上祐、杉浦実、岐部ら10人がいた。 1987年(昭和62)1月4日の丹沢セミナーで、密教修行者が魚を焼いて殺して食べたが、これは釈迦のいう不殺生だが、その魚の魂を高い世界へ上昇させるポアであり功徳だ、チベット密教では盗賊を殺すことも功徳となるとし、「グルがやれと言ったことすべてをやることができる状態、例えばそれは殺人も含めてだ、これも功徳に変わる」「グルのためだったら殺しだってやるよというタイプの人はクンダリニー・ヨーガに向いてる」とすでに説いていた。他にも「私も過去世においてグルの命令によって人を殺してる」「人を殺すというものはできないものだ。しかし、そのカルマですらグルに捧げたときにクンダリニー・ヨーガは成就する」「グルがそれを殺せと言うときは、例えば相手はもう死ぬ時期に来てる。そして、弟子に殺させることによって、その相手をポアさせるというね、一番いい時期に殺させるわけだね。」とも説いた。ただし、この時点では、殺さない、盗まない、よこしまなセックスをしない、うそをつかない等が「無難な方法」と述べている。 1987年(昭和62)2月頃、インドから帰国後、麻原は青年部が派手に動くので、青年部とサンガの統合を命じた。1987年4月、大阪支部にボーディーサットヴァの会が設立、早川が会長に指名された。
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