オウムとの出会い
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1982年4月、愛知学院大学法学部法律学科に進学。商法を専攻。入学直後は家族に公認会計士になりたいと話していた。授業には真面目に出席しており、3年生終了時には4年生の必修ゼミを除いて単位はほとんど取得、4年生の保険法ゼミでは幹事役を務めるなど周りからは活発な学生として評価されていた。クラブはユースホテル愛好会に入学時から所属し、主として京都・奈良・高野山などの寺院を訪ね歩く。高校時代に始めた極真空手は「続ける意味合いがない」と感じ、緑帯で終わっている。学費は家から出してもらったが、生活費はミスタードーナツなどでアルバイトをして稼ぎ、3年生の時に1年間だけした下宿生活も、吉野家の深夜アルバイトを増やして賄った。 この頃、『ムー』に続いて『トワイライト・ゾーン』も購読しはじめ、五島勉の『ノストラダムスの大予言』も全巻読破する。大学時代の終わりに友人の勧めで、再び別の宗教団体に入信するものの、同様に「よいことをしない魂は滅びる」との教義に「存在というものは、この神々の将棋の駒に過ぎないのか、いつでもその神々の意思によってなくなるのだろうか」との思いをいだく。しかし、新実は「私は決してそうではない、私たちには本当の力があるはずだ、神と同じレベルの魂が内在するはずだ」と感じるに至る。このため、神が持つとされる霊力を自分自身も持ちたいと考えるようになる。 このとき、『ムー』や『トワイライトゾーン』などで麻原彰晃の空中浮揚の記事が目にとまり、ヒヒイロカネのプレゼントに応募したことがきっかけで、大学卒業間近の1986年正月、オウムの前身「オウム神仙の会」のセミナーに参加し、すぐに入会し会員となるが、その際に送られてきた運命鑑定書には、新実が自分では認めたくない隠していた内面が書かれていた。シャクティーパットとこの運命鑑定書により、一気に傾倒を深め行法を続けると赤と青の光が見えるようになり、著しい精神的変化が起こった。
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オウムとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 13:35 UTC 版)
神戸製鋼に入社し金属加工の研究に携わるが、会社にも家庭にも生きがいを感じなかった。その頃、麻原彰晃の著書『生死を超える』『超能力秘密の開発法』などを読み、1987年4月、早速オウム大阪支部を訪れる。感銘を受けた村井は翌日に会社に辞表を提出し、オウム神仙の会に入信、「もう迷うことはない。わたしは今、水を得た魚となったのだ。さあ、真理の大海、自由の大海、歓喜の大海へ泳ぎ出よう。」と決意した。
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