アリー・ベイの反乱とは? わかりやすく解説

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アリー・ベイの反乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 09:45 UTC 版)

オスマン帝国領エジプト」の記事における「アリー・ベイの反乱」の解説

アリー・ベイはエジプトでの権力固めるため要職自分配下のマムルークたちに任せた。彼らの中にはその後エジプト支配的地位上るイブラーヒームIbrahim)とムラードMurad)、そしてアリー・ベイの運命決定的な影響与えるムハンマド・アブー・アッ=ザハブ(英語版)らがいた。アリー・ベイはイェニチェリ勢力抑えて下エジプト主要都市徴税請負確保しエジプト総督脅迫してイスタンブル頭越しスエズ港へのヨーロッパ船舶立ち入り認めさせるなど、自立化向けてエジプト支配固めていった。 1769年、アリー・ベイは露土戦争(1768年-1774年)のために、オスマン宮廷から12,000人の兵を集めることを要求された。だが、イスタンブルでは、アリー・ベイが軍を集めれば彼は自らの独立確保するためにそれを使うであろうという話が持ち上がった。そしてオスマン宮廷からエジプト総督の下へアリー・ベイの処刑命令携えた使者派遣された。アリー・ベイはイスタンブル配置していた彼のエージェントからこの使者出発知らされ使者待ち伏せて殺害するよう命じた処刑命令押収され、あるベイたちの集会前にアリー・ベイによって読み上げられた。アリー・ベイはこの処刑命令全員同じよう適用される断言し、自らの生命のために戦うよう彼らに促したベイたちはアリー・ベイによってその地位にあり、彼の言葉ベイたちに熱狂と共に受け入れられた。エジプト独立宣言されオスマン帝国エジプト総督には48時間以内退去要求された。アリー・ベイと同じようパレスチナ自立目論んでいたアクレ総督ザーヒル・アル=ウマルはアリー・ベイと同盟結んだオスマン宮廷はこの時、アリー・ベイを制圧するための積極的な施策を取ることができなかった。アリー・ベイは北エジプトと南エジプト両方略奪行為を行う諸部族向けて遠征隊を派遣し財政改革行い行政公正さ改善するなどして、自身支配地を統合しよう努めた。アリー・ベイの義理の息子となったムハンマド・アブー・アッ=ザハブがアスワーンとアスユートの間の地域支配し上エジプトの王」と呼ばれたハウワーラ族(Hawwarah)の王フマームを服属させるために派遣された。また、20,000人の軍隊イエメン征服のために送られた。そしてイスマーイール・ベイ(英語版)を指揮官に8,000人の兵が紅海東岸獲得向かい、またIlasan Beyジッダ占領命じられた。6か月のうちにアラビア半島大部分がアリー・ベイの下に服した。そして彼は自分従兄弟メッカシャリーフ英語版)に任命した。彼はその地位においてアリー・ベイに「エジプトスルターン」および「2つの海のハン」の称号授けた。これによって得た正当性の下、1771年にアリー・ベイは自分の名前でコイン発行し、フトゥバ(金曜礼拝)において自らの名前に言及するように命じた。 同じ年にアブー・アッ=ザハブは30,000人の兵と共にシリア英語版)の征服向かい、またヴェネツィアロシア交渉のためのエージェント派遣された。アリー・ベイと同盟を結ぶザーヒル・アル=ウマル協力得たアブー・アッ=ザハブはパレスチナシリア主要都市容易く制圧しダマスカス達した。しかし、アブー・アッ=ザハブはシリア遠征に自ら参戦しないアリー・ベイに不信感募らせ、また異教徒たるヨーロッパ人結んでオスマン帝国反旗を翻すことへの怖れ手伝い、この時点オスマン宮廷秘密裏交渉入ったと見られる。彼はエジプトオスマン帝国宗主権の下に戻すことを約束しシリアから引き払うと、招集可能な全軍をもって上エジプト向かい1772年4月アスユート占領した。そしてベドウィンから追加軍勢補充しカイロへ進軍した。アリー・ベイはアブー・アッ=ザハブの進軍確認するためにイスマーイール・ベイを3,000人の兵と共に派遣したが、イスマーイール・ベイとその軍勢はアブー・アッ=ザハブに寝返った。アリー・ベイは当初カイロ城塞可能な限り防御続けることを企図したが、友人のザーヒル・アル=ウマル未だ彼の亡命受け入れ意思があるという情報得てアブー・アッ=ザハブが入城する前日1772年4月8日カイロ離れシリア向かった。 アリー・ベイはアクレ再起図ったアクレの港の外にロシア船が停泊し、彼がロシア帝国結んだ合意に従って補給物資弾薬、3,000人のアルバニア兵が供給された。そして、アブー・アッ=ザハブの撤収によってオスマン宮廷統制下に入っていたシリアの諸都市回復するため旗下将軍、アリー・ベイ・アル=タンターウィー(Ali Bey al-Tantawi)を派遣した一方でアリー・ベイ自身ヤッファテルアビブ)とガザ占領しヤッファ友人たるザーヒル・アル=ウマル分け与えた1773年2月1日、彼はカイロからシャイフ・アル=バラド就任したアブー・アッ=ザハブが、その地位において前代未聞資産没収行っており、これによってエジプト人たちがアリー・ベイに帰還呼び掛けているという情報受け取った。彼はそれに応じて8,000人の軍を率いてエジプト向けて出発し4月19日にSalihiyya Madrasaでアブー・アッ=ザハブの軍勢会敵した。アリー・ベイ軍は最初の衝突勝利したが、その2日後に戦闘再開された際には数名将校が彼を見捨てて離脱し、さらに疫病負傷によって彼が状況左右することができなくなった。この結果、アリー・ベイ軍は完敗喫した敗北確定した後、彼は自らの天幕離れることを拒否し、勇ましい抵抗の後に捕らえられカイロ送られ7日後に没した。 アリー・ベイの死後エジプト今一度オスマン宮廷支配下にはいり、パシャ称号与えられたアブー・アッ=ザハブがシャイフ・アル=バラドとして統治した。彼はアリー・ベイのやり方踏襲しつつ、表面的にオスマン帝国従順に振る舞って、やはり自立的な政権構築目論んだ。アブー・アッ=ザハブはその後間もなく、アリー・ベイを支援したザーヒル・アル=ウマル罰するという形でオスマン宮廷からシリア侵攻許可を受け、彼の代理としてイスマーイール・ベイとイブラーヒーム・ベイがカイロ残留した。イブラーヒーム・ベイはSalihiyyaの戦いにおいてアリー・ベイを見捨て彼の敗北契機作った人物である。アブー・アッ=ザハブはパレスチナ多く都市占領したが、その後死亡した。その原因不明である。1775年5月26日、やはりSalihiyyaの戦いでアリー・ベイを見限ったムラード・ベイシリア軍団エジプト帰還させた。 イスマーイール・ベイが今やシャイフ・アル=バラドとなった。しかしすぐに他の2人有力者イブラーヒーム・ベイとムラード・ベイとの間に抗争生じたその後、イスマーイール・ベイはエジプトから追放され残った二人で二頭体制敷いた1786年オスマン宮廷エジプト主権回復すべく遠征軍派遣すると、この二人政権一時崩壊したムラード・ベイオスマン帝国軍抵抗試みた瞬く間敗れた。彼はイブラーヒーム・ベイと共に上エジプト逃亡することを決め状況の変化を待つことにした。8月1日オスマン軍司令官ジェザイルリ・ガーズィ・ハサン・パシャカイロ入城し激し暴力の後に秩序回復のための処置取られた。追放されていたイスマーイール・ベイが再びシャイフ・アル=バラドとなり、新たなパシャ総督として赴任した。しかし、1791年1月カイロおよびエジプト全土ペスト猛威荒れ狂い、イスマーイール・ベイとその家族大半犠牲となった能力ある統治者が必要とされたため、イブラーヒーム・ベイとムラード・ベイが元のさやに戻され二頭体制再構築した。彼らは1798年ナポレオン・ボナパルトエジプト入った時点においてもその地位にあった

※この「アリー・ベイの反乱」の解説は、「オスマン帝国領エジプト」の解説の一部です。
「アリー・ベイの反乱」を含む「オスマン帝国領エジプト」の記事については、「オスマン帝国領エジプト」の概要を参照ください。

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