アブデュルハミト2世の治世
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「オスマン帝国海軍」の記事における「アブデュルハミト2世の治世」の解説
1876年にアブデュルハミト2世が即位すると海軍予算は大幅に削減され、オスマン帝国海軍の状態はさらに悪化した。理由は国家規模に不相応な装甲艦の大量購入による財政難と、改革派の多い海軍将官への不信感であった。アブデュルハミト2世は露土戦争に敗れた1878年から約20年の間、艦隊の主力艦を金角湾に係留して演習航海もさせずに放置させ、練度の低下を招いた。給与支払いの遅れが重なり、元から低い将兵の士気もますます低下した。 海軍予算の削減に伴いイギリス企業はオスマン帝国海軍から次々と撤退、お雇い外国人も引き上げて3年後には数名を数えるだけとなった。そのため、艦船は主にトルコ人の技師や工員が維持する事となったが、艦の機関ボイラーは急速に機能が低下し、エンジン・テレグラフやメーターなどの精密機械も次々と壊れて行った。壊れた部品は国内各地の工場にばらばらに修理に送られ、多くが戻って来なかった。 1890年代にギリシャとの戦乱が押し迫った時にようやく、海軍の予算が割り振られて艦隊は演習行動する事が出来たが、その時には艦・人・兵器、すべてが『役立たずの艦隊』となっていた。1890年に日本への遠洋航海中に発生したエルトゥールル号遭難事件も、このようなオスマン帝国海軍の惨状が生んだ事故であった。 1891年、ギリシャ海軍がフランスに発注したイドラ級海防戦艦3隻中の2隻がピレウスに到着したことを知ったスルタンは、海軍予算を決める権限を持つ大宰相キャーミル・パシャに対し「新興国のギリシャでさえ最新の装甲艦を購入できたと言うのに、わが国の海軍が艦隊を整備できないのは何故か?!」と厳しく問い詰め、海軍予算の値上げを約束させた。しかし、無闇に海軍予算を増やせば国庫に破壊的な影響を与えかねないので大宰相は海軍に「当面は新たに戦艦や巡洋艦を購入せず、現存の装甲艦を修理もしくは近代化改装を行う事で満足し、これにより海防に勤めてもらいたい」と見解を示した。 この見解はスルタンの怒りを買い、宮廷より大宰相に文書により叱責が来た。慌てた大宰相は「あらゆる財政的な手段に訴えて費用を捻出し、新式の装甲艦と巡洋艦を調達する。しかしながら今から新造しても完成には3、4年かかるため、迅速な国防には間に合わないため、海軍には現有の装甲艦を改装する事が防衛上先決であるとの考えから今年度予算を編成したが、新型艦は国債から捻出する資金によって、短期間で造船することを条件に購入するべきであるとの見解を示した」と弁明したが、どう言い繕っても旧式化した装甲艦に換わる主力艦の購入はまずなかった。 海軍は止むを得ず、既存の装甲艦を近代化改装して少しでも戦力を維持しようと努めた。この根拠は1883年10月9日に当時の海軍大臣ハッサン・パシャが出した艦隊の維持に関する質問書で、その回答は以下のようなものであった。 帝国艦隊の装甲艦14隻中のうち、有事に出撃可能なものは6隻(装甲フリゲート「アーサール・テヴフィク」「メスーディイェ」、装甲コルベット「アヴニッラー」「ムイーニ・ザフェル」「フェトヒ・ビュレント」「ムカッデメイ・ハユル」)のみである。 帝国の軍艦の艦砲は全て前装式なので、現在後装式への換装を計画中である。 艦隊用の燃料備蓄は現段階は少ないが、有事の際は国庫負担で購入し準備されるであろう。 常備兵の数は減員され、現在の人員では維持で手一杯である。有事には予備役を招集し、正規軍を編成する。 当時使用中の艦砲はイギリスのアームストロング社製前装砲を優先して搭載していた。しかし、フランスのカネー社やドイツのクルップ社で、操作は簡単・装填作業が楽・射程も長い後装式が開発されていた。オスマン帝国海軍はイギリスとの繋がりも薄れたため、ドイツのクルップ社から大砲のカタログを取り寄せ、各艦ごとに搭載可能な大砲の大きさと数を検討しリストアップした。それと同時に、アームストロング社には既存の大砲を改造して後装式にできるか、出来たとして費用はどの位かを確認した。同社は「改造は可能で改造費は300~450ポンドで出来るが、自社の同口径の後装式よりも射程は劣る」と返答した。 そのため、海軍は当時建造中であった装甲艦「ハミディイェ」及び既存装甲艦のうち程度の良い6隻へは新しくクルップ社の後装砲を購入して取り付ける事とし、残りの程度の悪い軍艦には既存のアームストロング砲を改造し後装式にした物を搭載することを決定した。しかし、換装は予算難から遅々として進まず、結局は換装計画は頓挫して多くの艦は前装砲をそのまま使い続ける事となった。 更に、艦隊の装甲艦の装甲の材質は鉄であったが、時代は既に鋼鉄となっていたため、製鋼設備を輸入し、国産の鋼鉄で装甲を鋼鉄に切り替えることとなった。また、多くの艦の機関用ボイラーが20年間も整備されずに酷使され続けたものであるのを、航行に耐えないとして取り換える事となった。もっとも、既存の装甲艦はもともと低速であり、補修をしたとしても主力艦として低速なのは否めなかった。 1887年に海軍は装甲艦「オスマニイェ」「マフムディイェ」「オルハニイェ」「アズィーズィエ」の近代化改装を計画、1889年に予算が下り、ようやく許可が出されたため、1890年にまず「オスマニイェ」「アズィーズイェ」の2隻の近代化改装が開始された。しかし、1891年に海軍はドイツに駆逐艦「ムアヴェネティ・ミッリイェ級」4隻を発注したため、改装に使える予算は少なくなった。そのため残り2隻は改装を中止、改装中の2隻の工事は延期を重ねて「オスマニイェ」は1892年に改装終了、「アジィズェ」は1894年まで掛かってしまった。その間に列強海軍は前弩級戦艦の時代に入っていた。その後、「メスーディイェ」もイタリアで近代化改装を行うことになり、1903年に完了した。 このほか、1880年代後半にはノルデンフェルト式潜水艇2隻(アブデュルハミト、アブデュルメジト)、1903年と1904年に防護巡洋艦1隻ずつ計2隻を導入している。潜水艇は実用に堪えなかったが、防護巡洋艦「メジディイェ」と「ハミディイェ」は貴重な新型艦として長年にわたって使用されることになった。
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