アブデュルハミト2世の治世とは? わかりやすく解説

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アブデュルハミト2世の治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:29 UTC 版)

オスマン帝国海軍」の記事における「アブデュルハミト2世の治世」の解説

1876年アブデュルハミト2世即位する海軍予算大幅に削減されオスマン帝国海軍の状態はさらに悪化した理由国家規模不相応な装甲艦大量購入による財政難と、改革派の多い海軍将官への不信感であったアブデュルハミト2世露土戦争敗れた1878年から約20年の間、艦隊主力艦金角湾係留して演習航海もさせずに放置させ、練度低下招いた給与支払いの遅れが重なり、元から低い将兵士気もますます低下した海軍予算削減に伴いイギリス企業オスマン帝国海軍から次々と撤退お雇い外国人引き上げて3年後には数名数えるだけとなった。そのため、艦船は主にトルコ人技師工員維持する事となったが、艦の機関ボイラー急速に機能低下しエンジン・テレグラフメーターなどの精密機械次々と壊れて行った壊れた部品国内各地工場にばらばらに修理送られ多く戻って来なかった。 1890年代ギリシャとの戦乱押し迫った時にようやく、海軍予算割り振られ艦隊演習行動する事が出来たが、その時には艦・人・兵器、すべてが『役立たず艦隊となっていた。1890年日本への遠洋航海中に発生したエルトゥールル号遭難事件も、このようなオスマン帝国海軍惨状生んだ事故であった1891年ギリシャ海軍フランス発注したイドラ級海防戦艦3隻中の2隻がピレウス到着したことを知ったスルタンは、海軍予算決め権限を持つ大宰相キャーミル・パシャに対し新興国ギリシャでさえ最新装甲艦購入できたと言うのに、わが国海軍艦隊整備できないのは何故か?!」と厳しく問い詰め海軍予算値上げ約束させた。しかし、無闇に海軍予算増やせ国庫破壊的な影響与えかねないので大宰相海軍に「当面新たに戦艦巡洋艦購入せず現存装甲艦修理もしくは近代化改装を行う事で満足し、これにより海防勤めてもらいたい」と見解示した。 この見解スルタン怒りを買い、宮廷より大宰相文書により叱責が来た。慌てた大宰相は「あらゆる財政的な手段訴えて費用捻出し新式装甲艦巡洋艦調達するしかしながら今から新造しても完成には3、4年かかるため、迅速な国防には間に合わないため、海軍には現有装甲艦改装する事が防衛先決であるとの考えから今年度予算編成したが、新型艦は国債から捻出する資金によって、短期間造船することを条件購入するべきであるとの見解示した」と弁明したが、どう言い繕って旧式化した装甲艦換わる主力艦購入はまずなかった海軍止むを得ず既存装甲艦近代化改装して少しでも戦力維持しよう努めた。この根拠1883年10月9日当時海軍大臣ハッサン・パシャが出した艦隊維持に関する質問書で、その回答は以下のようなものであった帝国艦隊装甲艦14隻中のうち、有事出撃可能なものは6隻(装甲フリゲート「アーサール・テヴフィク」「メスーディイェ」、装甲コルベット「アヴニッラー」「ムイーニ・ザフェル」「フェトヒ・ビュレント」「ムカッデメイ・ハユル」)のみである。 帝国軍艦艦砲全て前装式なので、現在後装式への換装計画中である。 艦隊用の燃料備蓄現段階少ないが、有事の際は国庫負担購入し準備されるであろう常備兵の数は減員され、現在の人員では維持手一杯である。有事には予備役招集し正規軍編成する当時使用中艦砲イギリスアームストロング社製前装砲優先して搭載していた。しかし、フランスのカネー社やドイツクルップ社で、操作は簡単・装填作業が楽・射程長い後装式開発されていた。オスマン帝国海軍イギリスとの繋がり薄れたため、ドイツクルップ社から大砲カタログ取り寄せ、各艦ごとに搭載可能な大砲大きさと数を検討しリストアップした。それと同時にアームストロング社には既存大砲改造して後装式にできるか、出来たとして費用どの位かを確認した同社は「改造は可能で改造費は300450ポンド出来るが、自社の同口径後装式よりも射程は劣る」と返答した。 そのため、海軍当時建造であった装甲艦ハミディイェ」及び既存装甲艦のうち程度良い6隻へは新しくクルップ社後装砲購入して取り付ける事とし、残り程度の悪い軍艦には既存アームストロング砲改造し後装式にした物を搭載することを決定した。しかし、換装予算難から遅々として進まず結局は換装計画頓挫し多くの艦は前装砲そのまま使い続け事となった。 更に、艦隊装甲艦装甲材質であったが、時代は既に鋼鉄となっていたため、製鋼設備輸入し国産鋼鉄装甲鋼鉄切り替えることとなったまた、多くの艦の機関ボイラー20年間も整備されずに酷使され続けたのであるのを、航行に耐えないとして取り換える事となった。もっとも、既存装甲艦はもともと低速であり、補修をしたとしても主力艦として低速なのは否めなかった。 1887年海軍装甲艦「オスマニイェ」「マフムディイェ」「オルハニイェ」「アズィーズィエ」の近代化改装計画1889年予算下り、ようやく許可出されたため、1890年にまず「オスマニイェ」「アズィーズイェ」の2隻の近代化改装開始された。しかし、1891年海軍ドイツ駆逐艦「ムアヴェネティ・ミッリイェ級」4隻を発注したため、改装使える予算少なくなった。そのため残り2隻は改装中止改装中の2隻の工事延期重ねて「オスマニイェ」は1892年改装終了、「アジィズェ」は1894年まで掛かってしまった。その間列強海軍前弩級戦艦時代入っていた。その後、「メスーディイェ」もイタリアで近代化改装を行うことになり、1903年完了した。 このほか、1880年代後半にはノルデンフェルト潜水艇2隻(アブデュルハミトアブデュルメジト)、1903年1904年防護巡洋艦1隻ずつ計2隻を導入している。潜水艇実用に堪えなかったが、防護巡洋艦「メジディイェ」と「ハミディイェ」は貴重な新型艦として長年わたって使用されることになった

※この「アブデュルハミト2世の治世」の解説は、「オスマン帝国海軍」の解説の一部です。
「アブデュルハミト2世の治世」を含む「オスマン帝国海軍」の記事については、「オスマン帝国海軍」の概要を参照ください。

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