その他の日本のチーム、ドライバー
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「ル・マン24時間レース」の記事における「その他の日本のチーム、ドライバー」の解説
1986年から1990年まで高橋国光がドイツ・クレマーレーシングのポルシェ・962Cで参戦。最高位は1988年の9位。当時の日本人最高位記録。 1987年には岡田秀樹がザウバーから参戦。リタイア。岡田は88年から90年までクレマーレーシングのポルシェで参戦、最高位は高橋国光と組んだ88年で9位。 1988年、米山二郎と福山英朗がADAエンジニアリング(ADA・03)から参戦し、総合18位でC2クラス2位に入賞している。片山右京もクラージュ・コンペティション(クーガー・C22)で、初参戦リタイア。 1989年では、粕谷俊二がクラージュ・コンペティション(クーガー・C20B)から参戦し、総合14位でC2クラス優勝を果たしている。またFromAレーシングがブルンとジョイントで参戦。レギュラードライバーの中谷明彦が初出場。この他、池谷勝則がチーム・デイビーのポルシェで参戦、15位完走。米山二郎がクラージュのクーガーC22で参戦、リタイア。 1990年、東名スポーツがメンテナンスし、その後1992年に全日本F3選手権のチャンピオンとなるアンソニー・レイドらがドライブするジ・アルファレーシングのポルシェ・962Cが3位表彰台を獲得する。トラストもポルシェ・962Cで初参戦、粕谷俊二もドライブ。13位で完走する。池谷勝則もデイビーから参戦、19位完走。 1991年にはシフトがメンテナンスするチーム・FEDCOのスパイスSE90C/DFR(長坂尚樹/見崎清志/横島久組)が12位で完走し、カテゴリー1クラス優勝を遂げる。トラストも2年連続参戦するが、残り1時間でリタイアとなった。また、AOレーシングが吉川とみ子他女性3名(リン・セント・ジェームズ、デジレ・ウィルソンら)での出場を目指しスパイスSE90C/DFRでエントリーするが、現地で吉川にはライセンスが発給されず、吉川の参戦は断念。代役の女性ドライバーで参戦するが、47周でリタイヤに終わる。この他、池谷勝則がチーム・デイビーのポルシェで、粕谷俊二がクラシック/TFRのスパイスでエントリーしていたが、いずれも予選落ちに。 1992年には、粕谷俊二、松田秀士がユーロレーシング(マシンはローラT92/10ジャッド)から参戦し、総合13位で完走。また、原田淳・吉川とみ子・嶋村健太らがチーム・ニッポン(登録名チェンバレン・エンジニアリング、マシンはスパイスSE90C/DFR)として参戦したが、こちらはチェッカーをうけたものの周回数不足(160Lap)で非完走(NC)となり結果表のリタイアしたチームの一番上に記載されている。 1993年には、コンラッドモータースポーツ(マシンはポルシェ911カレラ)から原田淳が、クラージュ・コンペティション(マシンはクラージュC30)から吉川とみ子が参戦したが、両方リタイアに終わっている。 1994年は、チーム・ニッポン(登録名ADAエンジニアリング、マシンはポルシェ962GTI)が原田淳・吉川とみ子・近藤真彦の3人で参戦したが、途中リタイア。 1995年には、1985年より参戦を続けてきた関谷正徳が、日本人ドライバーとして初の総合優勝 (マクラーレン F1 GTR /チーム・国際開発UK、ドライバーは関谷正徳、J.J.レート、ヤニック・ダルマス)を果たした。 1997年、チーム郷がマクラーレン F1 GTR LMで参戦。ドライバーは中谷明彦、土屋圭市、ゲイリー・アイルズ。決勝は88周リタイア。 1999年、チーム郷がBMW・V12 LMで参戦。ドライバーはヒロ松下、加藤寛規、中谷明彦。223周リタイア。 2000年にはテレビ朝日がチーム郷と共同で、"テレビ朝日・チーム龍(Dragon)"としてパノスLMP-1を2台エントリーさせている。当初はLM-GT2クラスにクライスラー・ヴァイパーを2台投入した"チーム虎(Tiger)"として、二つのクラスで出場を計画していたが、諸事情でLMP-1クラスのみのエントリーとなっている。予定していたドライバーには高橋国光、近藤真彦、関谷正徳らが予定され、ル・マン経験者を中心に布陣を固めた「ドリームチーム」として期待されていた。この時ドライバーとピットとの会話を中継するなど新しい試みが行われたが、レースに出場するエントラントでもあったため他チームのピットを取材しようとして拒否されるなどのトラブルもあった。またチームタイサンのポルシェ911GT3がLM-GTクラス優勝を達成している。 2001年、チーム郷がデンマークのデン・ブラ・エイビスとジョイントで参戦。マシンは童夢・S101。ドライバーはジョン・ニールセン、加藤寛規、キャスパー・エルガード。リタイア。 2002年から2004年にかけてKONDO Racingが横浜ゴムとジョイントし、童夢・S101でル・マンに参戦。近藤真彦や福田良・片山右京・加藤寛規らがステアリングを握ったが、2003年に総合13位に入ったのが唯一の完走。 2002年、チーム郷がアウディ・R8で参戦。ドライバーは加藤寛規、ヤニック・ダルマス、荒聖治。総合7位。 2003年、チーム郷がアウディ・R8で参戦。ドライバーは荒聖治、ヤン・マグヌッセン、マルコ・ヴェルナー。総合4位。 2004年にはチーム郷のアウディ・R8が日本のプライベーターとしては初めての総合優勝を果たした。同チームのドライバーの1人の荒聖治は、日本人として2人目の総合優勝。リナルド・カペッロ、トム・クリステンセンとドライブ。 JLOC(日本ランボルギーニ・オーナーズ・クラブ)が、ランボルギーニワークスチームとして2006年のレースに、桧井保孝らのドライブで参戦したものの完走には至らなかった。2007年にも参戦したがフリー走行でクラッシュし、結局1周でレースを終えてしまっている。また2009年と2010年にも参戦したがリタイアに終わる。 2009年、チーム郷がポルシェ・RSスパイダーで参戦。ドライバーは荒聖治、国本京佑、サッシャ・マーセン。リタイア。 その他に太田哲也が1993年~1996年まで、羽根幸浩が1995年に、鈴木隆司が1996年~1997年まで、それぞれプライベートチームからの出場を果たしている。 東海大学において林義正研究室(開発コース)でル・マン参戦のための車両が研究開発されていた。2002年頃からル・マン参戦車両開発に向けた先行実験車両が開発され、その動向が注目されていたが、2008年の大会に参戦する意向が正式に発表され、2月にエントリーが認められた。東海大学で設計し山形のYGKが製作した産学協同開発エンジンを、クラージュ・オレカ製シャシーを修正したものに搭載したマシンを使用したが、学生がメカニック作業に慣れていないなどの要因からトラブルが多発。メカニックについてR&D SPORTの支援を仰いだものの、結果は決勝185周リタイアに終わった。林が東海大を退官する関係から2012年に同プロジェクトは終了したが、林はYGKと共同で新たなル・マン参戦プロジェクトを立ち上げる方針である。 2016年にクリアウォーター・レーシングよりエントリー(フェラーリ・458GT2)した澤圭太が、LM-GTEアマクラスのポールポジションを獲得した。 2017年にMRレーシングよりエントリー(フェラーリ・488GTE)した石川資章が、2018年、2019年とLM-GTEアマクラスで参戦している。 2021年には青木拓磨がフランスのSRT41チームより特別枠で出場(マシンはオレカ07・ギブソン、ドライバーは青木拓磨、スヌーシー・ベン・マッサ、ナイジェル・バリー)。334周、総合32位で完走している。 2021年に星野敏率いるD’station racingがLMGTE Amクラスに藤井誠暢が操るアストンマーティン・ヴァンテージで参戦し、クラス6位・総合33位で完走する。2022年のFIA世界耐久選手権にも参戦中。
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