かつての伽藍
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飛鳥寺の伽藍は、往時は塔(五重塔)を中心とし、その北に中金堂、塔の東西に東金堂・西金堂が建つ、一塔三金堂式伽藍配置という方式の伽藍の配置がされていた。これらの1塔、3金堂を回廊が囲み、回廊の南正面に中門があった。講堂は回廊外の北側にあった。四天王寺式伽藍配置では講堂の左右に回廊が取り付くのに対し、飛鳥寺では仏の空間である回廊内の聖域と、僧の研鑚や生活の場である講堂その他の建物を明確に区切っていたことが窺われる。以上を囲むように築地塀が回り、中門のすぐ南には南門、西側には西門があったことも発掘調査で判明している。 塔跡は、壇上積基壇(切石を組み立てた、格の高い基壇)、階段、周囲の石敷、地下式の心礎などが残っていたが、心礎以外の礎石は残っていなかった。心礎は地下2.7メートルに据えられ、中央の四角い孔の東壁に舎利納入孔が設けられていた。舎利容器は建久7年(1196年)の火災後に取り出されて再埋納されており、当初の舎利容器は残っていないが、発掘調査時に玉類、金環、金銀延板、挂甲、刀子などが出土した。出土品からは、この寺が古墳時代と飛鳥時代の境界に位置することが窺える。心礎の加工跡より、心柱は一辺が約1.5mの角柱であったと考えられる。 中金堂跡は、壇上積基壇跡が残るが、基壇上の礎石は残っていなかった。『護国寺本諸寺縁起集』によれば、中金堂は「三間四面 二階 在裳階」の建物で、身舎(内陣)の柱間が正面3間、側面2間、その周囲に庇(外陣)が廻り(建物の外側から見ると正面5間、側面4間)、重層の建物であったとみられる。裳階(もこし、本来の屋根の下に設けた屋根)は当初からあったものかどうか不明である。 東西金堂跡の基壇は下成(かせい)基壇上に玉石を並べた上成(じょうせい)基壇を築いた二重基壇で、塔・中金堂の壇上積基壇よりは格の下がるものである。二重基壇のうち上成基壇の礎石は失われ、下成基壇には小礎石が並んでいた。この小礎石がどのように用いられたかは不明であるが、深い軒の出を支えるための小柱が並んでいたものと推定される。『七大寺巡礼私記』には東金堂には百済伝来の弥勒菩薩石造、西金堂には金銅像とともに作られた繡仏を祀っていたと記されている。 中門は礎石の残りがよく、正面3間、奥行3間で、法隆寺中門のような重層の門であったと推定される。奥行が深い(3間)のが上代寺院の中門の特色である。南門も礎石の残りがよく、正面3間、奥行2間で、切妻造の八脚門であったと推定される。 1977年(昭和52年)の調査で、寺域北限の掘立柱塀と石組の溝が検出された。1982年(昭和57年)の調査では、寺域北側を区切る塀が南方に折れ曲がる地点、すなわち、寺域の北東隅が確認された。この結果、飛鳥寺の寺域は従来推定されていたより広く、南北が324メートルに達することが分かった。東西の幅については、寺域北端の塀の長さは約210メートルであるが、この塀の東端は南方へ直角に折れるのではなく、南東方向へ鈍角に折れており、寺域は南側がやや広い台形状になっている。主要伽藍はこの寺地の中央ではなく南東寄りに建てられており、寺域の東部と北部にはさまざまな附属建物が存在したと推定される。寺の西側には槻木の広場に関係すると思われる石敷遺構が見つかり、これに面する西門は南門よりも規模が大きいことも分かった。また、寺内の東に飛鳥池工房遺跡が発見された。
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かつての伽藍
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「慈恩寺 (寒河江市)」の記事における「かつての伽藍」の解説
『瑞宝山慈恩寺堂社之目録(是古来目録也)』を元に1504年以前の伽藍を記載する。 本堂 当初の築造年不詳。三間四面方六丈。本尊弥勒菩薩、不動明王、降三世明王を安置する。保元2年(1157年)に焼失するも、本尊は焼失を免れる。永暦元年(1160年)に再建。永仁4年(1296年)、本尊とともに焼失。大江氏により嘉元4年(1307年)に再建されるも1504年焼失。 阿弥陀堂(常行堂) 天仁元年(1108年)築造。一間四面方三丈三尺。本尊阿弥陀三尊を安置する。延文元年/正平11年(1356年)に焼失か。 釈迦堂(一切経堂 天仁元年(1108年)築造。一間四面方三丈一尺。釈迦三尊、普賢菩薩、文殊菩薩、十羅刹女を安置する。1504年に焼失。本尊は重要文化財。 丈六堂 天仁元年(1108年)築造。一間四面方三丈七尺。丈六尺の金色釈迦像を安置する。延文元年/正平11年(1356年)に焼失か。本尊の頭部は焼け残ったようであるが明治期に流出。 鐘楼 仁平年間(1151年 - 1153年)築造。三間。鳥羽院院宣により鋳造した洪鐘があった。延文元年/正平11年(1356年)に焼失か。 講堂 仁平年間(1151年 - 1153年)築造。九間四面、南北八丈、東西四丈。賓頭盧(びんずる)尊者等身像を安置する。延文元年/正平11年(1356年)焼失か。 宝蔵 仁平年間(1151年 - 1153年)築造。三間四面、南北二丈、東西三丈。金銀泥五部大乗経を納める。鳥羽院御持経、婆羅門僧正が東大寺大仏の開眼供養で用いたの袈裟一条、釈迦牟尼仏陀舎利は聖武天皇が下給し婆羅門僧正が伝えたものであるという。延文元年/正平11年(1356年)焼失か。 中門・廻廊・温室 仁平年間(1151年 - 1153年)築造。五間。金剛力士二尊を安置する。延文元年/正平11年(1356年)焼失か。 妙楽院弥陀堂 仁平年間(1151年 - 1153年)築造。再建を奉行した平忠盛が建立し阿弥陀三尊を安置したという。延文元年/正平11年(1356年)焼失か。 薬師堂 中院(または東院、上の寺:現在の本堂より500mほど東)に築造されていたが建立者・時期は不明。薬師三尊、十二神将を安置する。正応3年(1290年)良源阿闍梨により聞持院と改められ、1504年の兵火は免れたと思われるが16世紀中葉以降に廃れ、安置されていた仏像などは本堂東の薬師堂に移された。 禅定院 西院と呼ばれ現在の本堂より250mほど西に築造されていたもので、頼覚上人によって建立された。本尊の木造阿弥陀如来坐像(現在は慈光明院(山形市)の本尊)の墨書名が寛元5年(1247年)であるから13世紀の半ばには建立されていたとみられる。戒堂三間、僧堂三間、庫院三間、不動堂、経堂三間からなっていたという。享保12年(1727年)の時点で阿弥陀堂のみが残っており、現在は浄土宗不動山正覚寺 (寒河江市)の阿弥陀堂として移築されている。
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