かつての伽藍とは? わかりやすく解説

かつての伽藍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 11:29 UTC 版)

飛鳥寺」の記事における「かつての伽藍」の解説

飛鳥寺伽藍は、往時は塔(五重塔)を中心とし、その北に中金堂、塔の東西東金堂・西金堂が建つ、一塔三金堂式伽藍配置という方式伽藍配置がされていた。これらの1塔、3金堂回廊囲み回廊の南正面中門があった。講堂回廊外の北側にあった四天王寺式伽藍配置では講堂左右に回廊取り付くのに対し飛鳥寺では仏の空間である回廊内の聖域と、僧の研鑚や生活の場である講堂その他の建物明確に区切っていたことが窺われる。以上を囲むように築地塀回り中門のすぐ南には南門西側には西門があったことも発掘調査判明している。 塔跡は、壇上基壇切石組み立てた、格の高い基壇)、階段周囲石敷地下式の心礎などが残っていたが、心礎以外の礎石残っていなかった。心礎地下2.7メートル据えられ中央の四角い孔の東壁に舎利納入孔が設けられていた。舎利容器建久7年1196年)の火災後取り出されて再埋納されており、当初舎利容器残っていないが、発掘調査時に玉類、金環金銀延板挂甲刀子などが出土した出土品からは、この寺が古墳時代飛鳥時代境界位置することが窺える心礎加工跡より、心柱一辺が約1.5mの角柱であった考えられる中金堂跡は、壇上基壇跡が残るが、基壇上の礎石残っていなかった。『護国寺諸寺縁起集によれば中金堂は「三間四面 二階裳階」の建物で、身舎内陣)の柱間正面3間、側面2間、その周囲に庇(外陣)が廻り建物外側から見ると正面5間、側面4間)、重層建物であったとみられる裳階(もこし、本来の屋根の下に設けた屋根)は当初からあったものかどうか不明である。 東西金堂跡の基壇は下成(かせい)基壇上に玉石並べた上成じょうせい基壇築いた二重基壇で、塔・中金堂壇上基壇よりは格の下がるものである二重基壇のうち上成基壇礎石失われ、下成基壇には小礎石並んでいた。この小礎石どのように用いられたかは不明であるが、深い軒の出を支えるための小柱並んでいたもの推定される。『七大寺巡礼私記』には東金堂には百済伝来弥勒菩薩石造西金堂には金銅像とともに作られ繡仏祀っていたと記されている。 中門礎石残りがよく、正面3間、奥行3間で、法隆寺中門のような重層の門であった推定される奥行が深い(3間)のが上代寺院中門特色である。南門礎石残りがよく、正面3間、奥行2間で、切妻造の八脚門であった推定される1977年昭和52年)の調査で、寺域北限掘立柱塀と石組の溝が検出された。1982年昭和57年)の調査では、寺域北側区切る塀が南方折れ曲がる地点、すなわち、寺域北東隅が確認された。この結果飛鳥寺寺域従来推定されていたより広く南北324メートル達することが分かった東西の幅については、寺域北端の塀の長さは約210メートルであるが、この塀の東端南方へ直角に折れるのではなく南東方向鈍角折れており、寺域南側がやや広い台形になっている。主要伽藍はこの寺地中央ではなく南東寄り建てられており、寺域東部北部にはさまざまな附属建物存在した推定される。寺の西側には槻木広場関係する思われる石敷遺構が見つかり、これに面する西門南門よりも規模大きいことも分かったまた、寺内の東に飛鳥池工房遺跡発見された。

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かつての伽藍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 02:54 UTC 版)

慈恩寺 (寒河江市)」の記事における「かつての伽藍」の解説

『瑞宝山慈恩寺堂社之目録(是古来目録也)』を元に1504年以前伽藍記載する本堂 当初築造不詳三間四面方六丈。本尊弥勒菩薩不動明王降三世明王安置する保元2年1157年)に焼失するも、本尊焼失免れる永暦元年1160年)に再建永仁4年1296年)、本尊とともに焼失大江氏により嘉元4年1307年)に再建される1504年焼失阿弥陀堂常行堂天仁元年1108年築造一間四面方三丈三尺本尊阿弥陀三尊安置する延文元年正平11年1356年)に焼失か。 釈迦堂一切経天仁元年1108年築造一間四面方三丈一尺釈迦三尊普賢菩薩文殊菩薩十羅刹女安置する1504年焼失本尊重要文化財丈六天仁元年1108年築造一間四面方三丈七尺丈六尺の金色釈迦像を安置する延文元年正平11年1356年)に焼失か。本尊頭部焼け残ったようであるが明治期流出鐘楼 仁平年間1151年 - 1153年築造三間鳥羽院院宣により鋳造した洪鐘があった。延文元年正平11年1356年)に焼失か。 講堂 仁平年間1151年 - 1153年築造。九間四面南北八丈東西四丈。賓頭盧びんずる尊者等身像を安置する延文元年正平11年1356年焼失か。 宝蔵 仁平年間1151年 - 1153年築造三間四面南北二丈、東西三丈。金銀五部大乗経納める鳥羽院持経婆羅門僧正東大寺大仏開眼供養用いた袈裟一条釈迦牟尼仏舎利聖武天皇下給婆羅門僧正伝えたのであるという。延文元年正平11年1356年焼失か。 中門廻廊温室 仁平年間1151年 - 1153年築造。五間。金剛力士二尊安置する延文元年正平11年1356年焼失か。 妙楽院弥陀堂 仁平年間1151年 - 1153年築造再建奉行し平忠盛建立し阿弥陀三尊安置したという。延文元年正平11年1356年焼失か。 薬師堂 中院(または東院上の寺:現在の本堂より500mほど東)に築造されていたが建立者・時期不明薬師三尊十二神将安置する正応3年1290年良源阿闍梨により聞持院と改められ1504年兵火免れた思われる16世紀中葉以降廃れ安置されていた仏像などは本堂東の薬師堂移された。 禅定院 西院呼ばれ現在の本堂より250mほど西に築造されていたもので、頼覚上人によって建立された。本尊木造阿弥陀如来坐像(現在は慈光明院山形市)の本尊)の墨書名が寛元5年1247年であるから13世紀半ばには建立されていたとみられる。戒堂三間僧堂三間庫院三間不動堂経堂三間からなっていたという。享保12年1727年)の時点阿弥陀堂のみが残っており、現在は浄土宗不動山正覚寺 (寒河江市)阿弥陀堂として移築されている。

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