粟田部の蓬莱祀とは? わかりやすく解説

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粟田部の蓬莱祀

名称: 粟田部の蓬莱祀
ふりがな あわたべのおらいし
種別1: 風俗習慣
保護団体名: 岡太神社敬成会、粟田壮年
選択年月日 2005.02.21(平成17.02.21)
都道府県(列記): 福井県
市区町村(列記): 越前市粟田
代表都道府県 福井県
備考
解説文: 粟田部の蓬莱祀は、福井県今立【いまだて】町の粟田地区に伝わる小正月行事で、大きな木の上餅花御幣鏡餅などを飾り付けたダシ山車)と称される独特の作り物作り五穀豊穣無病息災国家安寧祈願して地区内を曳き回すものである
 今立町は、福井県嶺北れいほく地方中央部武生【たけふ】盆地東端位置する蓬莱祀伝承されている粟田地区は、通称三里山【さんりやま】と呼ばれる行司ぎょうじ】ヶ岳東南麓の在郷町で、農業を営む一方今立郡下の々から武生へ至る中継地点に当たる地理的条件から、この地方一帯商業交易中心として栄えてきたところである。
 この行事は、かつては有力商人など地区分限者の中から籤引き当番決め、この当番中心に行事営まれてきたが、現在は、粟田地区氏神である岡太【おかふと】神社氏子で、長老格の男性から構成される岡太神社敬正会と壮年層の男性中心とする粟田壮年会を中心に行われている。かつては一月十三日祭日であり、明治六年の改暦以降月遅れ二月十三日行われるようになったが、昭和五十九年に山車の曳き回し祝日二月十一日に移し十三日岡太神社で餅の配布直会を行う次第になり、現在に至っている。
 蓬莱祀は、文化十二年(一八一五)の『越前国名蹟考』に、賑やかな行事様子伝え絵図とともにその記事見えまた、岡太神社所蔵文書資料には天正年間一五七三~九二)に遡る行事記録残されているなど、この地域古くから伝えられてきた行事であることがうかがわれる。その由来について諸説あるが、粟田部は継体けいたい天皇即位する以前男大迹皇子おおとのおうじ】の時代住した地であるとの伝承があり、蓬莱祀はこの継体天皇行幸擬して始められたとも、また、三里山を中国神仙思想説かれる蓬莱山見立てて山車作り祝ったことに由来するともいわれている。
 二月十一日は、午前中に二つの会の男性たちが岡太神社集まり山車組み立て飾り付けを行う。山車長さメートルほどのシュラ呼ばれるの上円筒形台座載せその上にさまざまな飾り物付けた華やかなのである台座は、俵締【たわらじ】めと称して束を覆い荒縄締め直径約三メートル大きさ仕上げられる。この台座中央木に小さな餅をたわわに付けた米花【まいばな】あるいは繭玉呼ばれる飾り立てられるの木は必ず三里山から採ってくるものとされ、行事が終わると次の年に使う枝振り良い木を見立てておくという。米花左右に御幣上部に付けた幣竹【にぎてだけ】と鏡餅挟み込んだ鏡竹【かがみだけ】、その前面には細く割った青竹丸餅挿した串の餅や折枝などが飾られ最後に台座周囲青葉使って根締めをする。こうして完成した山車は、岡太神社鳥居前に置かれ御神酒や米、野菜乾物などが三方載せて供えられる
 午後一時ころ、山車の前で祭典が行われた後、山車は赤い頭巾羽織着け音頭取り呼ばれる二人長老乗せ大勢男性たちに曳かれて神社出発する山車太鼓載せた囃子屋台先導され音頭取り唄う木遣り唄合わせて粟田部の地区内を賑やかに巡行する。山車曳くとその年は病気をしないといわれており、各町内では山車やって来る老若男女曳き手として加わりまた、町内では餅を付けた小枝配られる
 近世においては山車の巡行時には往来通行厳しく規制され蓑笠着け見物することも許されなかったほど厳粛な行事であった伝えられ文政年間一八一八三〇)には蓑笠着用めぐって福井藩巻き込んだ騒動起こっている。山車一行途中氏子総代の家などを宿として休憩取りながら各町内練り歩き最後に岡太神社戻って曳き回し終了となる。
 二月十三日は、地区長老たち岡太神社集まり山車上に飾り付けた串の餅が配られ直会が行われる。



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