『ねじ式』以降
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1968年6月の別冊『つげ義春特集号』に描いた『ねじ式』は養老渓谷に近い千葉県の太海を旅行した経験が元になっている。つげ本人は「ラーメン屋の屋根の上で見た夢。原稿の締め切りが迫りヤケクソになって書いた」と語っているように、この作品はテーマがまとまっておらず、全てが完璧な他作品(「ほんやら堂のべんさん」や「ゲンセンカン主人」)に比較し明らかに完成度は低い。7月号の「ゲンセンカン主人」は『沼』の反復(意識や反省の及ばない客観世界への没入と離脱)であり、「前世がなかったら、私たちはまるで、幽霊ではありませんか」というセリフを生み出したつげの創造的構想力はこの作品でピークを迎える。1968年6月頃には『もっきり屋の少女』を描き上げ『ガロ』8月号に発表した。この作品は従来同様の完成度であるが、主人公の旅人がチヨジとの別れ際にもらす「考えてみりゃあ もともと 考えることなんかなかったのだからね」というセリフが『沼』から始まった一連の創作の終わりを告げている。これはつげが作品で示そうとしながら決して語らなかったこと(主観性や内省に対する生の現実や単純な言葉の優位)であり、そのことを「語って」しまってはもはや作品を描くことは出来ない。「奇跡の2年間」は終わり、これ以降、つげの作品は弛緩して別人のものとなる。そして生活の上では意識と現実の生の統合が不調となり、9月には精神衰弱に苛まれ、2, 3度文通を交わしただけの看護師の女性と結婚するつもりで九州への蒸発を決意したが、10日で帰京。翌、1969年には状況劇場の女優藤原マキと知り合う。 おりしも、時代は全共闘紛争のちょうど前夜。劇画ブームも手伝い、大学生や社会人も漫画を読むようになった時代であり、そうした世相を反映しアングラ芸術のタッチも取り入れた『ねじ式』は、漫画が初めて表現の領域を超越した作品として絶賛され社会現象となり、後続の作家たちにも絶大な影響を与えることになった。この作品に関しては多くの精神分析的解釈が試みられたが、つげはそのいずれをも「全然当たっていない」と一笑に付している。つげは、1969年2月の『アサヒグラフ』でこの作品にコメントし「時間・空間と全く関係のない世界―それは死の世界じゃないんだけど―それを自分のものにできたらと思っている。『ねじ式』ではそうした恍惚と恐怖の世界・異空間の世界がいくらか出ていると思う」と述べている。 『ねじ式』に関して多くの評論家や詩人、文化人などがそれぞれの立場から多くの批評を試みた。詩人の天沢退二郎は、「徹底したプライベートな視線に貫かれた作品空間がつげ作品の特徴だが、『ねじ式』ではその空間がさらに異様なものになっており、作者そのもののような主人公(一人称)は自らを踏み外して異空間へ入っていき、もはや作者とは思えない主人公が悪夢の中にいる。その主人公とは“悪夢の中のわれわれ”なのだ。つげ作品を読むことは、夢を見ることなのだ」と述べ、つげ作品の根源的コワサにふれ絶賛した。石子順造は“存在論的反マンガ”と呼び「自然と人間が同じ位相にあり、つげは日常のただなかにある奈落を見ている。つげの漫画は狂猥な現代の文明状況の中で生まれ死ぬしかないぼくらの生の痛みと深くつながっている」とし、つげ作品を読むことは「恍惚とした恐怖の体験をすること」だとした。白土三平作品が唯物史観漫画として論議されたのに対し、つげ作品は「意識」「存在」「風景」「時間」といった言葉で盛んに論じられた。 当時の生活は、「毎日が空白のつらなり」のようなもので、昼頃目覚め洗顔後、散歩に出ては本屋の店先を冷やかし、喫茶店へ足を運び片隅の暗がりでポツンと座りボーッとする。間が持てないと思うと仕方なく漫画のアイデアを考えることもある。2時ころには窓を閉め切ったままの一人暮らしの薄暗い部屋に戻り、座ったり寝転んだりを繰り返し、眠気が来るまでボケっとする。不眠症のため午前3時ころに睡眠薬を飲む。食事は散歩のついでに食堂で済ませ、あるいは喫茶店のモーニングサービスのトーストで我慢し、夜はパンかインスタントラーメンを作る。これが毎日繰り返される。当時は「おそらく日本でいちばん寡作でしょう」と自称するほどで生活費確保のため水木プロダクションの手伝いを月に1週間ほどし、「適当に食えるだけ取ればやめてしまう」生活ぶりであった。また、当時「意識を拒否する意識が自分の中にある」とし、次のように発言している。「ここにコップがありますね。こういうものが時どき“ものがある”というふうに見えるんです。その時の恍惚とした気持ち。そうなんです。自分自身が<<もの>>になれたらといつも思っているんですよ」。つげは当時よく見た夢について、「山と澄み渡った空、鮮やかな天然色の風景が眼前に広がり輝くほどに明るい。しかしその風景は何ひとつ動かず時間が止まったようで、ぼく自身は風景と断絶しており、まるで客席から映画のスクリーンを見るような関係にある。その風景は、ぼくを恍惚とさせ、同時にすごく恐怖させる」とも発言し、睡眠薬を常用するのはその“悪夢”を見るためでもあったという。 1970年、調布市内に転居し、藤原と同居するようになる。ガロにおける最後の作品となった『やなぎ屋主人』では、劇画風のタッチを編み出し再度の変化を見せつけたが、予想外に巻き起こったつげブームにより印税収入が入ったせいもあり、1970年頃からだんだん寡作になっていく。
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