「隼人の墓制」論とは? わかりやすく解説

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「隼人の墓制」論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:45 UTC 版)

板石積石棺墓」の記事における「「隼人の墓制」論」の解説

また、これに並行して、その特異な構造と、九州南部集中分布する状況、同墓制の主要分布域では高塚古墳の分布極めて希薄であることなどから、『記紀』や『続日本紀』などの文献上で古代律令国家から辺境の異部族と見なされた隼人」の墓ではないかとする見解現れた。鹿児島県宮崎県熊本県南部いわゆる南九州地方には、板石積石棺墓以外にも、「地下式横穴墓」や「立石土壙墓」・「土壙墓」・「土器墓」などの高塚古墳以外の地下墓制」が弥生時代~古墳時代時期分布しており、高塚古墳が(特に薩摩地域で)非常に少ないこともあって、古墳時代日本列島内での「特異な地域」として認識されのである196080年代にかけ、全国古墳時代像が総括的に論じられるうになる中で、薩摩分布する板石積石棺墓は、文献見える「薩摩隼人」の墓制に、宮崎県南部大隅地域地下式横穴墓を「日向・大隼人」の墓制薩摩半島南部分布する立石土壙墓」を「阿多隼人」の墓制として対応させる見解相次いで現れた。その成立要因については、同地火山性土壌平野狭く稲作適さないうえ、外界から「孤立」・「隔絶」した環境であるため、弥生時代以降文化的な変化停滞した結果古墳文化圏に属さない独自の社会勢力圏成立した、と理解された。畿内中心に列島にその支配権拡大する大和朝廷古墳文化圏)と、それに属さない化外の民「隼人」という図式で描くこの「九州南部地下墓制」=「隼人の墓」の観念は、広く一般に受け入れられるようになっていった。 しかし、1990年代になって板石積石棺墓と「隼人」を結びつける考え方は、はたして適切なのか、という疑問多く研究者、特に地元九州研究者学会から指摘されるようになった文献上での「隼人」の初出『古事記』神話部分であり、人皇時代では仁徳天皇条からで早くから登場しているが、確実な史実としての隼人」の記述『日本書紀』にみえる7世紀後半天武朝11年682年7月隼人朝貢記録以降とされる板石積石棺墓隆盛は4〜5世紀前葉、つまり古墳時代前半代を中心とし、確実に古墳時代後期6世紀以降存続する例は発見されていないまた、日向・大隼人の墓」とみなされ地下式横穴墓も5〜6世紀がその造営期間中心で、遅くとも7世紀前半代までしか存続しない。また「阿多隼人の墓」といわれた立石土壙墓いたっては、確実に年代判明する遺構弥生時代中期古墳時代初頭あり、かつこの地域薩摩半島南端鹿児島湾沿岸部)では、立石のない土壙墓土器墓の方が主要な墓制であることがわかり、この墓制だけを取り上げて阿多隼人の墓」とすることが妥当と言えなくなったまた、そもそも隼人」という存在自体が、7世紀当時律令政府により、大陸倣った中華思想に基づき政治的恣意的創出された「擬似民族集団」であり、在来勢力民族的な差異によって生じた概念ではない、とする説もあり、「異民族」・「化外の民」という観念異質性強調した古代南九州人の捉え方についても再考迫られつつある。 このような流れで、文献考古学資料安易な結びつけや、少なくとも飛鳥・奈良時代の「隼人概念古墳時代板石積石棺墓波及させる考え方には、批判強まってゆき、1990年代末までには「隼人の墓制」論は主たる学説ではなくなった。

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「隼人の墓制」論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 14:04 UTC 版)

地下式横穴墓」の記事における「「隼人の墓制」論」の解説

また、これに並行して地下式横穴墓は、その特異な構造と、九州南部集中分布する状況九州南部高塚古墳分布圏(古墳文化圏)の周縁位置することから、文献上で古代律令国家から辺境の異部族と見なされた隼人」の墓ではないかとする見解現れた。 196080年代入り全国古墳時代像が総括的に論じられるうになる中でこの論は加速し地下式横穴墓を「日向・大隼人」の墓制前述板石積石棺墓地下式板石積石室墓)を「薩摩隼人」の墓制薩摩半島南部分布する立石土壙墓」を「阿多隼人」の墓制位置付ける見解相次いで出された。その成立要因については、同地火山性土壌平野狭く稲作適さないうえ、外界から孤立隔絶した環境であるためとし、弥生時代以降文化的な変化停滞した結果、独自の社会勢力圏成立した、と理解された。畿内中心に列島にその支配権拡大する大和朝廷古墳文化圏)と、それに属さない化外の民「隼人」という図式で描くこの「九州南部特殊な地下墓制」=「隼人の墓」の認識は、広く一般に受け入れられるようになっていった。 しかし、1990年代になって地下式横穴墓に「隼人」を結びつける考え方は、はたして適切なのか、という疑問多く研究者、特に地元九州研究者学会から指摘されるようになった文献上での「隼人」の初出『古事記』神話部分であり、人皇時代では仁徳天皇条から登場しているが、確実な史実として「隼人」という呼称使われ始めるのは7世紀後半天武朝11年7月682年隼人朝貢記録以降とされる。これに対し地下式横穴墓隆盛は5から6世紀中心とし、少なくとも7世紀中頃までしか存続しない。また、律令期に「隼人」と呼ばれた集団居住域は、大隅国薩摩国であり日向国含んでおらず、宮崎県南部から鹿児島県東部広がる地下式横穴墓分布が、仮に墓制共通する同一文化集団居住地を示すものであるなら、大隅国在地住民は「隼人」であるが、日向国在地住民は「隼人」ではないことになる。これについては、そもそも隼人」という存在自体が、律令政府により、大陸倣った中華思想に基づき政治的恣意的創出された「擬似民族集団」であり、在来勢力民族的な差異によって生じた概念はないため、とする見解が有力である。 考古学見地からも、高塚古墳群地下式横穴墓群が完全に共存関係にある事例や、高塚古墳主要な埋葬主体として地下式横穴墓取り付く例など、両墓制関係性が、「大和」対「在地勢力」という対立構図説明できない事例増加したこのような流れで、文献考古学資料安易な結びつけや、少なくとも飛鳥・奈良時代の「隼人」の概念古墳時代地下墓制にまで波及させる考え方には、批判強まっていった。 1997年平成9年)の宮崎考古学会「葬送儀礼にみる東アジア隼人」では、地下式横穴と「隼人」とを結び付ける考え否定的な意見考古学研究者・文献史学研究者双方から相次ぎ1990年代末までには「地下式横穴=隼人の墓」という見解は、考古学文献史学両面から主たる学説とは見なされなくなった

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「隼人の墓制」論

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立石土壙墓」の記事における「「隼人の墓制」論」の解説

立石土壙墓は、他地域類を見ない構造や、薩摩半島南端集中する分布状況、同墓制分布域では高塚古墳の分布極めて希薄であること(南さつま市奥山の奥山古墳指宿市十二町弥次ヶ湯古墳のみ)から、文献上で古代律令国家から辺境の異部族と見なされた隼人」の墓ではないかとする見解現れた。 鹿児島県宮崎県熊本県南部いわゆる南九州地方には、立石土壙墓以外にも、「地下式横穴墓」や「板石積石棺墓」・「土壙墓」・「土器墓」などの高塚古墳以外の地下墓制」が弥生時代~古墳時代時期分布しており、高塚古墳が(特に薩摩地域で)少ないこともあって、古墳時代日本列島内での「特異な地域」として認識されのである196080年代にかけ、全国古墳時代像が総括的に論じられるうになる中で、立石土壙墓は、『記紀』や『続日本紀』などの文献見える「阿多隼人」の墓制ではないかとされるようになったまた、宮崎県南部鹿児島県大隅地域地下式横穴墓を「日向・大隼人」の墓制薩摩半島北部の「板石積石棺墓」を「薩摩隼人」の墓制として対応させる見解相次いで現れた。畿内中心に列島にその支配権拡大する大和朝廷古墳文化圏)と、それに属さない化外の民「隼人」という図式で描くこの「隼人の墓」の認識は、広く一般に受け入れられるようになっていった。 しかし、1990年代になって、これらの地下墓制を「隼人」に結びつける考え方は、はたして適切なのか、という疑問多く研究者、特に地元九州研究者学会から指摘されるようになった文献上、確実に隼人と言う存在実態をもって現れてくるのは、7世紀後半天武朝以降記述とされるが、立石土壙墓存続時期は、確実に年代判明する遺構弥生時代中期後半で、最も新し時期の南摺ヶ浜遺跡例でも弥生時代終末期であり、古墳時代以降まで存続する例は知られていない。かつこの地域薩摩半島南端鹿児島湾沿岸部)では、立石のない土壙墓土器墓の方が圧倒的に多い主要な墓制であることがわかっており、立石土壙墓だけを取り上げて阿多隼人の墓」とする妥当性極めて低くなっている。 また、そもそも隼人」という存在自体が、7世紀当時律令政府により、大陸倣った華夷思想に基づき政治的恣意的創出されたものであり、在来勢力民族的な差異によって生じた概念ではない、とする見解も有力になり、「異民族」「化外の民」という異質性強調した古代南九州人の捉え方についても再考迫られつつある。 このような流れで、文献考古学資料安易な結びつけや、少なくとも飛鳥・奈良時代の「隼人概念立石土壙墓(および地下式横穴墓板石積石棺墓)に波及させる考え方には批判強まっていき、1990年代末までには「隼人の墓制」論は、考古学文献史学両面から主たる学説とは見なされなくなった

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