「隼人の墓制」論
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また、これに並行して、その特異な構造と、九州南部に集中分布する状況、同墓制の主要分布域では高塚古墳の分布が極めて希薄であることなどから、『記紀』や『続日本紀』などの文献上で、古代律令国家から辺境の異部族と見なされた「隼人」の墓ではないかとする見解が現れた。鹿児島県や宮崎県・熊本県南部のいわゆる南九州地方には、板石積石棺墓以外にも、「地下式横穴墓」や「立石土壙墓」・「土壙墓」・「土器棺墓」などの高塚古墳以外の「地下式墓制」が弥生時代~古墳時代の時期に分布しており、高塚古墳が(特に薩摩地域で)非常に少ないこともあって、古墳時代日本列島内での「特異な地域」として認識されたのである。 1960~80年代にかけ、全国の古墳時代像が総括的に論じられるようになる中で、薩摩に分布する板石積石棺墓は、文献に見える「薩摩隼人」の墓制に、宮崎県南部~大隅地域の地下式横穴墓を「日向・大隅隼人」の墓制、薩摩半島南部に分布する「立石土壙墓」を「阿多隼人」の墓制として対応させる見解が相次いで現れた。その成立要因については、同地が火山性土壌で平野も狭く、稲作に適さないうえ、外界から「孤立」・「隔絶」した環境であるため、弥生時代以降の文化的な変化が停滞した結果、古墳文化圏に属さない独自の社会・勢力圏が成立した、と理解された。畿内を中心に列島にその支配権を拡大する大和朝廷(古墳文化圏)と、それに属さない化外の民「隼人」という図式で描くこの「九州南部の地下式墓制」=「隼人の墓」の観念は、広く一般にも受け入れられるようになっていった。 しかし、1990年代になって、板石積石棺墓と「隼人」を結びつける考え方は、はたして適切なのか、という疑問が多くの研究者、特に地元九州の研究者や学会から指摘されるようになった。 文献上での「隼人」の初出は『古事記』の神話部分であり、人皇時代では仁徳天皇条からで早くから登場しているが、確実な史実としての「隼人」の記述は『日本書紀』にみえる7世紀後半の天武朝11年(682年)7月の隼人朝貢記録以降とされる。板石積石棺墓の隆盛は4〜5世紀前葉、つまり古墳時代前半代を中心とし、確実に古墳時代後期(6世紀)以降に存続する例は発見されていない。また、「日向・大隅隼人の墓」とみなされた地下式横穴墓も5〜6世紀がその造営期間の中心で、遅くとも7世紀前半代までしか存続しない。また「阿多隼人の墓」といわれた立石土壙墓にいたっては、確実に年代が判明する遺構は弥生時代中期~古墳時代初頭であり、かつこの地域(薩摩半島南端~鹿児島湾沿岸部)では、立石のない土壙墓や土器棺墓の方が主要な墓制であることがわかり、この墓制だけを取り上げて「阿多隼人の墓」とすることが妥当と言えなくなった。また、そもそも「隼人」という存在自体が、7世紀末当時の律令政府により、大陸に倣った中華思想に基づき政治的・恣意的に創出された「擬似民族集団」であり、在来勢力や民族的な差異によって生じた概念ではない、とする説もあり、「異民族」・「化外の民」という観念で異質性を強調した古代南九州人の捉え方についても再考が迫られつつある。 このような流れで、文献と考古学資料の安易な結びつけや、少なくとも飛鳥・奈良時代の「隼人」概念を古墳時代の板石積石棺墓に波及させる考え方には、批判が強まってゆき、1990年代末までには「隼人の墓制」論は主たる学説ではなくなった。
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「隼人の墓制」論
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また、これに並行して地下式横穴墓は、その特異な構造と、九州南部に集中分布する状況、九州南部が高塚古墳分布圏(古墳文化圏)の周縁に位置することから、文献上で古代律令国家から辺境の異部族と見なされた「隼人」の墓ではないかとする見解が現れた。 1960~80年代に入り、全国の古墳時代像が総括的に論じられるようになる中でこの論は加速し、地下式横穴墓を「日向・大隅隼人」の墓制、前述の板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)を「薩摩隼人」の墓制、薩摩半島南部に分布する「立石土壙墓」を「阿多隼人」の墓制と位置付ける見解が相次いで出された。その成立要因については、同地が火山性土壌で平野も狭く、稲作に適さないうえ、外界から孤立・隔絶した環境であるためとし、弥生時代以降の文化的な変化が停滞した結果、独自の社会・勢力圏が成立した、と理解された。畿内を中心に列島にその支配権を拡大する大和朝廷(古墳文化圏)と、それに属さない化外の民「隼人」という図式で描くこの「九州南部の特殊な地下式墓制」=「隼人の墓」の認識は、広く一般にも受け入れられるようになっていった。 しかし、1990年代になって、地下式横穴墓に「隼人」を結びつける考え方は、はたして適切なのか、という疑問が多くの研究者、特に地元九州の研究者や学会から指摘されるようになった。 文献上での「隼人」の初出は『古事記』の神話部分であり、人皇時代では仁徳天皇条から登場しているが、確実な史実として「隼人」という呼称が使われ始めるのは7世紀後半の天武朝11年7月(682年隼人朝貢記録)以降とされる。これに対し地下式横穴墓の隆盛は5から6世紀を中心とし、少なくとも7世紀の中頃までしか存続しない。また、律令期に「隼人」と呼ばれた集団の居住域は、大隅国と薩摩国であり日向国を含んでおらず、宮崎県南部から鹿児島県東部に広がる地下式横穴墓の分布が、仮に墓制を共通する同一文化集団の居住地を示すものであるなら、大隅国の在地住民は「隼人」であるが、日向国の在地住民は「隼人」ではないことになる。これについては、そもそも「隼人」という存在自体が、律令政府により、大陸に倣った中華思想に基づき政治的・恣意的に創出された「擬似民族集団」であり、在来勢力や民族的な差異によって生じた概念ではないため、とする見解が有力である。 考古学の見地からも、高塚古墳群と地下式横穴墓群が完全に共存関係にある事例や、高塚古墳の主要な埋葬主体として地下式横穴墓が取り付く例など、両墓制の関係性が、「大和」対「在地勢力」という対立構図で説明できない事例が増加した。このような流れで、文献と考古学資料の安易な結びつけや、少なくとも飛鳥・奈良時代の「隼人」の概念を古墳時代の地下式墓制にまで波及させる考え方には、批判が強まっていった。 1997年(平成9年)の宮崎考古学会「葬送儀礼にみる東アジアと隼人」では、地下式横穴と「隼人」とを結び付ける考えに否定的な意見が考古学研究者・文献史学研究者双方から相次ぎ、1990年代末までには「地下式横穴=隼人の墓」という見解は、考古学・文献史学両面から主たる学説とは見なされなくなった。
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「隼人の墓制」論
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立石土壙墓は、他地域で類を見ない構造や、薩摩半島南端に集中する分布状況、同墓制分布域では高塚古墳の分布が極めて希薄であること(南さつま市奥山の奥山古墳、指宿市十二町の弥次ヶ湯古墳のみ)から、文献上で古代律令国家から辺境の異部族と見なされた「隼人」の墓ではないかとする見解が現れた。 鹿児島県や宮崎県・熊本県南部のいわゆる南九州地方には、立石土壙墓以外にも、「地下式横穴墓」や「板石積石棺墓」・「土壙墓」・「土器棺墓」などの高塚古墳以外の「地下式墓制」が弥生時代~古墳時代の時期に分布しており、高塚古墳が(特に薩摩地域で)少ないこともあって、古墳時代日本列島内での「特異な地域」として認識されたのである。 1960~80年代にかけ、全国の古墳時代像が総括的に論じられるようになる中で、立石土壙墓は、『記紀』や『続日本紀』などの文献に見える「阿多隼人」の墓制ではないかとされるようになった。また、宮崎県南部~鹿児島県大隅地域の地下式横穴墓を「日向・大隅隼人」の墓制、薩摩半島北部の「板石積石棺墓」を「薩摩隼人」の墓制として対応させる見解が相次いで現れた。畿内を中心に列島にその支配権を拡大する大和朝廷(古墳文化圏)と、それに属さない化外の民「隼人」という図式で描くこの「隼人の墓」の認識は、広く一般にも受け入れられるようになっていった。 しかし、1990年代になって、これらの地下式墓制を「隼人」に結びつける考え方は、はたして適切なのか、という疑問が多くの研究者、特に地元九州の研究者や学会から指摘されるようになった。 文献上、確実に「隼人」と言う存在が実態をもって現れてくるのは、7世紀後半の天武朝以降の記述とされるが、立石土壙墓の存続時期は、確実に年代が判明する遺構は弥生時代中期後半で、最も新しい時期の南摺ヶ浜遺跡例でも弥生時代終末期であり、古墳時代以降まで存続する例は知られていない。かつこの地域(薩摩半島南端~鹿児島湾沿岸部)では、立石のない土壙墓や土器棺墓の方が圧倒的に多い主要な墓制であることがわかっており、立石土壙墓だけを取り上げて「阿多隼人の墓」とする妥当性は極めて低くなっている。 また、そもそも「隼人」という存在自体が、7世紀末当時の律令政府により、大陸に倣った華夷思想に基づき政治的・恣意的に創出されたものであり、在来勢力や民族的な差異によって生じた概念ではない、とする見解も有力になり、「異民族」「化外の民」という異質性を強調した古代南九州人の捉え方についても再考が迫られつつある。 このような流れで、文献と考古学資料の安易な結びつけや、少なくとも飛鳥・奈良時代の「隼人」概念を立石土壙墓(および地下式横穴墓と板石積石棺墓)に波及させる考え方には批判が強まっていき、1990年代末までには「隼人の墓制」論は、考古学・文献史学両面から主たる学説とは見なされなくなった。
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