「山の神・年神・屋敷神・田の神・稲の神・祖霊神」概念との類似
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 05:38 UTC 版)
「イオマンテ」の記事における「「山の神・年神・屋敷神・田の神・稲の神・祖霊神」概念との類似」の解説
日本神道における、「山の神・年神・屋敷神・田の神・稲の神・祖霊神」などの概念とイオマンテの概念との間には、類似性がみられる。[要出典] これらの概念を説明すると、 「山の神・年神・田の神・屋敷神・稲の神・祖霊神」は同一の存在の「豊穣神」であり、[要出典]季節ごとにその名と姿と居場所を変える。まず、山の神が、冬の新年(新春)になると、年神となって、山から麓の村(=地上=人界)に降りて来て(年神を屋敷に迎え入れる行事が「正月」=冬祭り)、屋敷神となって屋敷と一族を守り、春になると、田に出て、田の神となり、田植え(=予祝祭や水口祭や田植祭などの春祭り)が行われ、夏の間、田の神=稲の神は、稲を見守り育て(お盆=夏祭り)、秋になると、田の神=稲の神は豊かな実りを齎し、神霊(稲霊)の宿る稲が収穫され、収穫祭(=秋祭り)が行われ、人は田の神=稲の神に収穫物を捧げて、神とともに収穫を祝い、田の神を屋敷に迎え入れて、風呂やご馳走でもてなして労をねぎらい、神を山(=辺境+高い場所=異界=天=神の国=死者の国)に送り出し、神は山に帰っていき、山の神となる。 以後も、この1年の循環(サイクル)を、毎年繰り返す。 また一族の者が亡くなると、その者の霊は、祖霊となり、村を見守る近くの山に行って、山の神となり、村と一族の守護神となり、上記の循環(サイクル)を経て、村や屋敷に帰ってくる。」 祭祀の対象が、植物である「稲」=「(上記)~の神」か、動物である「熊」=「熊のカムイ(神)」か、の違い(これは農耕民と狩猟採集民の生活基盤の違いともいえる)はあるが、どちらも豊穣(豊猟)儀礼であり、「神(カムイ)の霊(体ごと)を迎え、神(カムイ)の霊の宿った稲(体)が育ち、神(カムイ)の稲(体)を収穫(屠殺)し、再来を期待して、神(カムイ)の霊を、祭りを行い、収穫物(稲穂/稲生(イノウ)=イナウ)を捧げて(土産に持たせて)、もてなした後、山(神々の世界)に送り出す」というサイクルなど、同じ構造を有している。[独自研究?] また、イオマンテにおいて重要なことは、儀式に使う子熊は「母熊が必ず死んでいなければ(殺されなければ)ならない」ということである。稲において「母熊」に相当する物は「種籾」である。「子熊」に相当する物は「芽」である。一粒の種はそのままでは一粒のままであるが、一粒の種が地に落ちて死ぬ(=発芽する)ことで、将来、多くの実を結ぶのである(母熊殺し=播種)。種を播くことなしに芽が出ることはなく実りを得ることもないのである。儀礼とは象徴(シンボル)を操作することにより望む結果を招来しようとする一種の呪術なのである。異なる点は、稲であればその年の内に結実するが、子熊は増えないので、来年以降の豊猟という形となる。つまり今年の収獲は、昨年以前の儀式の結果ということになる。[独自研究?] 「播種によって、種が死んで芽(=苗=稲)となる」、のと同様に、逆の論理も成り立つ。つまり、「収穫によって、稲が死んで種(種籾)となる」、のである。即ち、子熊が死ぬ(を屠殺する)ことで、母熊が生き返る(復活する)のである。冬に子熊とともに巣籠もりしている母熊は、実は、数年前に死んだ(殺された)母熊が、生き返った(復活した)ものなのである。勿論、実際に生き返るわけではないが、そのように「見做す」わけである。 さらにさらに言えば、冬に母熊とともにいる子熊は、母熊が死ぬ(殺される)ことで、この世に生まれるのであり、実は、それは、冬になる前に殺された子熊が生き返った(復活した、生まれ変わった)ものなのである。勿論、これも、実際に生き返るわけではないが、そのように「見做す」わけである。 冬に母熊とともにいる子熊は、いうなれば、母の子宮にいる胎児であり、固い殻に包まれた種子の中の胚なのである。いわば、「可能態」の状態である。そしてそれは、母を母に、種子を種子に、たらしめているものであり、子がいなければ母ではなく、胚が無ければ種子ではなく、いわば、子とは生命(生命力)そのものである。この生命力は、作物(穀物)や家畜や人間を育む力である。それらの中に宿るものである。 冬になる前に殺された子熊の霊=生命(生命力)は、神々の世界(カムイモシリ)=霊界へと旅立つ。そこには、数年前に死んだ母熊が待っているのである。そして、母子は、再び一つとなり、子熊の霊=生命(生命力)は、母熊を生き返らせ(復活させ)、母熊が(肉体を得て、受肉化)生き返る(復活する)わけである。 故に、冬に巣籠りしている母子の熊を、わざわざ探さなければならないのである。 冬に巣籠りしている母子の熊は、神々の世界=カムイモシリで再会した母子の霊を表しているのと同時に、それらが肉体を得て、現実世界=アイヌモシリにスライド(遷移)してきたことを、重なり合った2つの世界を、二重の状態を、表しているのである。 こうして、サイクルは完成し、また、新たなイオマンテの儀式が始まるのである。 よって、象徴儀礼としてのイオマンテを成り立たせるための要件は、以下となる。 冬に、巣籠りしている母子の熊を、捕獲して用いること。(冬、種子の状態) 母熊を殺すこと。これにより、母熊の霊は、カムイモシリに待機することになる。(春、播種) 子熊を数年間養育すること。(夏、成長期) 子熊を殺すこと。これにより、子熊の霊を、カムイモシリに、母熊のもとに送ることになる。(秋、収穫) である。 これらのどれかを欠いても、象徴儀礼としてのイオマンテは、成立しない。なぜなら、これで一つのサイクルだからである。これらのどれかの要件を欠くということは、そのサイクルが成り立たないということを意味する。 イナウについては、日本神道における御幣の古い形である「削り花」との形状の類似性が見られる。[誰?]イナウは、形状のみならず、名称からしても、「稲の穂を模した物」と考えるのが妥当であろう。稲の穂は「穀霊=穀物神=豊穣神」の宿る依り代にして、「穀霊=穀物神=豊穣神」の象徴でもある。この「穀霊=穀物神=豊穣神」には、世界的に見ても、男性神と女性神の両方のパターンがある。また、「穀霊=穀物神=豊穣神」は、両者が対となった存在、両者を兼ね備えた両性具有存在、であるとも考えられる(例:宇賀神)。[独自研究?]故に、「穀霊=穀物神=豊穣神」を表現するのに、男性と女性の両方の象徴を用意すればよい。故に、イナウには男性と女性の性別があるのである。[独自研究?] また、貨幣経済以前の社会において、穀物とは富であり権力資源である。人間の世界(アイヌモシリ)の投影である神々の世界(カムイモシリ)においても、イナウ=稲の穂=富=権力資源が、支配者の投影である神々に喜ばれるのは当然のことであろう。[誰?] もちろん、子熊自体が稲に相当するので、原理的にはイナウは必要ないのだが、こうした儀礼において、同じ役割を果たす異なる象徴が重複しても問題はない。人間心理としては、豊穣や幸福を実現する縁起物は、種類と量が多くあればあるほど良いのである。そして、稲作を行わない狩猟採集民族であるはずのアイヌの豊穣儀礼に、イナウを必要とするところに、イオマンテ儀礼の原型・起源が透けて見えるのである。[誰?]
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