荒野より (小説)
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作品研究・解釈
『荒野より』は、身辺雑記をそのまま小説にしたもので、三島の小説の中ではほとんど見られない異色作であるため、晩年の三島が何故、このような何の虚構設定もない、三島従来の方法論でない純粋な私小説、心境小説を書いていたのかに焦点が当てられ、この後、行動と死の世界に突き進んでいった三島の内面を探る作品の一つとして論じられる傾向がある[1][2]。同時代の評価でも指摘されているように、〈芸術家にはたしかに、酒を売る人に似たところがある〉という作中の「さりげない言葉」に、三島の芸術観が垣間見られ、三島が「狂気・孤独・芸術」についての内的告白をしている作品でもある[3]。
村松剛は、『荒野より』を発表した頃の三島は、それまで築き上げ、「開拓して来た多彩な世界」(〈私の心の都会〉の世界)に満足できなくなっていたとし[19]、この小説の中で、「孤独な狂気の世界」である〈荒野〉に足を踏み入れる決意を表明し、次第に「荒野へ、行動の世界へ」と踏み込んでいったと考察している[19]。そして最後は「だれもついて行けない孤独な地点」にまで、三島は歩み去っていったと村松は述べている[19]。
中上健次は、私小説を書かない三島が、自分の両親や妻を登場させているのは、三島の短編の中でも独特であり、「一見私小説風な仕立て」の『荒野より』は、〈私〉から見た事件経過の1章目、家人達から見た事件経過の2章目、それらを突き合わせた思索の3章目という、芥川龍之介の『藪の中』のような3つの視点の「構成意志のはっきりした」作品であるにもかかわらず、「不思議な感触」を抱かせるとし[20]、三島が「〈私〉ではないもう一人の〈私〉」という「ドッペルゲンゲル風な作品」をそれまでも『仮面の告白』や『金閣寺』など多く書いているが、『荒野より』が違うのは、「本来なら愚弄し、嘲笑し、こづきまわすはずの〈本当のこと〉などという言葉を口にする男」を、〈私〉の思索は男を免罪するように、「作家の逡巡や内省」が描かれていることで、そこに「不思議な感触」が生じるとしている[20]。
そして中上は、〈私〉が最後に〈本当のことを話した〉と言うオチは「上手い、シャレた、少しばかり苦い味」で、そこに再び立ち現れるのも「ドッペルゲンゲル」であり、「〈本当のこと〉を求めて、今一度、男と共に〈私〉の元へ〈本当のこと〉を訊ねに行かなくてはならなくなる」と解説しながら[20]、〈私〉と〈あいつ〉の関係を以下のように考察している[20]。
奥野健男は、元々は話者が直接、聴衆に物語ることから発生した「言語芸術」が、印刷技術の発達により活字を媒体とした「孤独な作者と孤独な読者」の関係に移行し、「遠隔力学の芸術」である「小説」というジャンルが生れたことを前置きし[12]、三島という作家が特に「読者」との交遊・交流を避け、小説に関しては「孤独な遠隔力学による表現であること」に徹していたが、『荒野より』では珍しく孤独な「内心の秘密」が語られ、自らの「文学宇宙、心の地図」を説明し、『金閣寺』や『英霊の聲』など自作の〈憑かれる〉人物を冷静明晰に造型していることが明かされ、三島の知的で論理的な自己洞察力の鋭さや、怜悧な認識力が再確認されて、『仮面の告白』以来の「強い感動」を覚えたと評している[12]。
また奥野は、三島が描く〈都会〉は昭和戦前期の「古風」さで「精巧な模型の都市」であり、三島自身も子供の頃から、世界は積木細工以上のものでないと捉えていたにもかかわらず、三島の観念の中の都市は、小説の中では「生きた都市」に変貌するとし[12]、その理由は、三島が根っからの都会作家であり、都会の頽廃やニヒリズムを表現できる作家は日本において三島が一番であり、「都会の本質的な遊びや人間関係」を描くことができると同時に、「美や遊びや悦楽の周辺に居ながらも、そこに参加できないみそっかすの人間のみじめさと屈辱と復讐の心」を一番理解しているのも三島であるとし[12]、「都会の落伍者、落伍しながらも都会以外に住む場所のない落伍者」は三島文学の重要人物となると解説している[12]。
そして「三島の文学王国」は、「荒野の中にある孤立した都市」であり、その荒野は、安部公房の『砂の女』や『内なる辺境』の砂の荒野に似て、荒野から都市を侵略する騎馬民族か、あるいは『他人の顔』や『箱男』の主人公を想起できるが、三島の荒野は空襲で焼け野原になった廃墟に思えると、奥野は以下のように考察し[12]、生前の三島は「動かない都市を、荒野を超えて専ら、海に求めた」とも語っている[12]。
清水昶は、人生が絶えず期待し要求する「童話」、「まれびと」(宮沢賢治の『風の又三郎』の又三郎のような存在)について触れながら、日本の敗戦の年に遺書を残していた三島は、「あきらかに戦後という時代に転校してきたまれびと」であったとし[4]、様々な作品の中で自身の分身である「まれびと」を描いた三島が、「戦中の死の意識」を、「生死不明」の戦後の時代に突きつけることにより、「人間が人間として生きるための意識」を活性化させようとしたと考察している[4]。
そして清水は、『荒野より』の中で、〈あいつ〉がやって来た〈荒野〉について三島が言う、〈いつかそこを訪れたことがあり、又いつか再び、訪れなければならぬことを知つてゐる〉という「述懐」には、「虚無の美へと踏み込むことによってみえてくる輪廻転生への三島の熱い願望がある」とし、以下のように考察している[4]。また『荒野より』と似た作品『独楽』にも触れ、「大人になってしまったことの絶望感」を「少年期という過去」から照らし出していると解説している[4]。
青海健は、類似的で「二曲一双」な『荒野より』と、随筆『独楽』を詳細に比較論考し、『独楽』が書かれた時点では、三島はすでに自死の決意を固めていたため、〈先生はいつ死ぬんですか〉と質問しに男子高校生と「私」の関係は「距離間隔なし」に描かれ、透明に澄んだ〈独楽〉の瞬間に〈何か〉と入れ替わり、「異界(死の世界、文学の否定へと到達してしまった者の住む場所)からのメッセージ」を〈私〉に届けた〈少年〉は、「行動の世界へと参入した三島自身の姿」であり、彼に自己の姿を仮託することで、三島が自ら少年へと変身していると考察している[1]。
そして『荒野より』の時点の三島には、まだ自死の考えはなく、「日常性にどっぷりと浸った幸福な世界の住人」であったため、「〈荒野〉の世界(文学や小説そのものが本質的に抱えこんでいる孤独や狂気の領域)」から来た青年は日常性を破る闖入者として現われ、青年と「私」の間にはまだ大きな距離感覚があるとし[1]、「異界」(死)がすでに〈狂気〉ではなくなっていた『独楽』とはその点の違いはあるが、両作品は共に同じ主題を持ち、青年は〈私〉の分身〈あいつ〉であり、「いつか確実に〈私〉を襲う」ものとして〈荒野〉が予感されていると青海は考察している[1]。
また青海は、三島を襲う「死」は単に抽象的なものでなく、「肉体や行動の美学」、二・二六事件と天皇、「戦後社会のあり方をめぐる問題性」などの「思想」と深く関わっているが、心境小説の問題では「心情」の内部を探るとし[1]、そこで鍵となる「作者三島と語り手〈私〉との分裂」、「〈私〉と青年(少年)との分身または変身」の観点を鑑みつつ、読者に自決の決意を隠し「仮面」の書き手にならざるを得ない『独楽』でさえも、「純粋で素直な自己の真情を小説として告白すること」を成功させているとし[1]、まだ自衛隊治安出動の希望を持っていた1969年(昭和44年)の新宿デモ以前の時点に書かれた『蘭陵王』に見られる「無意識の死の予感」とも絡めて、蘭陵王の仮面の下の素面の〈やさしい顔立ち〉の世界は、「恐るべき〈荒野〉(死)」と同じ地点でもあり、同時にそこは「人間存在が回帰していくべき〈やさしい〉故郷」であり、「すべての存在の究極の在る極み、絶対」であると解説している[1]。
そして、晩年の三島が『荒野より』、『蘭陵王』、『独楽』のような「虚構のヴェール」の無い小説作法で異色の素朴な心境小説を何故書いたのか、何を読者に書き残そうとしたのかの問題に青海は焦点を絞り、三島が常に「二元論的な世界観」の分裂につきまとわれて「言葉の世界」と「行動の世界」を乗り越えた地点に近づこうとしていたことに触れ、以下のように考察している[1]。
「独楽」における作者と語り手の峻別、つまり純粋な澄んだ世界に住む少年と、文学という虚構に賭けるしかない「私」との距離、また、「荒野より」の「私」が生活する賑やかな都会と、青年の故郷である、それを取り囲む孤独な荒野とのへだたり。(中略)
「死」は、これら二つのものを、一つの絶対へと繋ぐ架橋である。逆の見方をするなら、「死」を目前にすることではじめて、文学者三島は、その晩年において、二つのものの統合としての絶対を現出させることに成功した。そこは「仮面」そのものが「告白」と化す、あの不思議な二元論統合の一元的な世界である。これらの“心境小説”は、言葉の錬金術師三島の晩年の真情を、そのようなかたちで読者に提示している。 — 青海健「異界からの呼び声――三島由紀夫晩年の心境小説」[1]
佐藤秀明は、青海健が〈荒野〉を「文学や小説そのものが本質的に抱えこんでいる孤独や狂気の領域」と呼び、それが「やがて小説家三島を死へと拉致していく恐るべき領域」とした論考に同意を示し、その〈荒野〉は、三島が15歳の時に書いた詩『凶ごと』の〈町並のむかう〉と同じ場所であり、10代半ばで〈荒野〉の存在に気づいてしまった三島は、生涯にわたって、その〈荒野〉を待ち続けたと考察しながら[21]、その〈町並のむかう〉から〈凶変なだう悪な砂塵が〉〈おしよせてくる〉と書かれた『凶ごと』の、〈窓に立ち椿事を待つた〉〈わたくし〉は、「〈椿事〉が起こることによって何ものかになる」とし[21]、もしも〈椿事〉が起きないのならば、「〈わたくし〉が〈椿事〉を起こすしかない」という思考が、後年の三島が持った行動原理だったと解説している[21]。
また佐藤は、三島が「絶対を垣間見ん」とした「能動的ニヒリスト」と呼ばれたことに触れ[注釈 2]、三島が必要とした〈絶対〉〈絶対者〉(「虚無」と言い換えることも可能な)イメージは、高所や垂直にあるのではなく、「平面上の彼方」(〈荒野〉〈町並のむかう〉)に存在するとし[21]、『英霊の聲』では、理想の美的天皇像が〈黄塵のかなた〉から出現し、『奔馬』では、自刃する飯沼勲の見る〈昇る日輪〉(〈絶対〉の観念の具現)が「水平軸のかなた」に位置すること、その他の諸作品(『太陽と鉄』『鏡子の家』)でも、究極を求める思考の感覚が、〈縁(へり)〉〈辺境〉という言葉で表現され、その「超越的地点」かつ「〈絶対〉との境界」が「距離の感覚」で示されていることを指摘している[21]。
そして、そういった三島の思考は、「古代日本の思考」に似ており、古代のヤマトことばは、敬いを「遠近の感覚」によって表わし、上下を意味する言葉はなかったとする国語学者の大野晋の研究(「近くが親愛、遠くが尊敬の扱いとなっていた」[23])を佐藤は紹介して[21]、三島が求めた〈絶対〉への「距離の感覚」が、「階層的な不可能性ではなく、到達の可能性」を帯び、「すでにそこを知っている、そこに何があるのかを知っているという既知の感覚」(経験以前の既知)を三島が10代の頃から持ち続けていたことが、その作品世界から看取されるとし[21]、その「現実とは別の次元に知覚された超越性」である「現実が許容しない詩」は、三島の生涯の様々な局面で展開していったと論考している[21]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m 青海健「異界からの呼び声――三島由紀夫晩年の心境小説」(愛知女子短期大学 国語国文 1997年3月号)。(青海・帰還 2000, pp. 58–83)。
- ^ a b c 山内洋「荒野より【研究】」(事典 2000, pp. 135–137)
- ^ a b 佐渡谷重信「荒野より」(旧事典 1976, p. 152)
- ^ a b c d e f 清水昶「日常の中の荒野――『真夏の死』、『孔雀』、『荒野より』、『独楽』」(清水昶 1986, pp. 60–75)
- ^ 田中美代子「解題――荒野より」(20巻 2002, p. 806)
- ^ 井上隆史編「作品目録――昭和41年」(42巻 2005, pp. 440–444)
- ^ 山中剛史編「著書目録」(42巻 2005, p. 597)
- ^ “[https://www.chuko.co.jp/bunko/2016/06/206265.html 荒野より 新装版]”. 中央公論社 (2016年6月23日). 2022年12月11日閲覧。
- ^ 久保田裕子「三島由紀夫翻訳書目」(事典 2000, pp. 695–729)
- ^ 佐藤秀明・井上隆史編「年譜 昭和41年6月下旬」(42巻 2005, p. 282)
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- ^ a b c d 平岡梓「倅・三島由紀夫」(諸君! 1971年12月号-1972年4月号)。「第三章」(梓 1996, pp. 48–102)。
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- ^ a b c 山本健吉「文芸時評」(読売新聞 1966年9月27日号)。山本 1969, pp. 426–427に所収
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- ^ a b c 磯田光一「文化主義に背くもの――『荒野より』について」(図書新聞 1967年4月1日号)。「三島由紀夫と現代 文化主義に背くもの――『荒野より』について」(磯田 1979, pp. 137–140)
- ^ a b c d e 佐伯彰一「《評伝・三島由紀夫》――二つの遺作」(『三島由紀夫全集』3巻-4巻、6巻、10巻、13巻、17巻-19巻月報付録)(新潮社、1973年-1974年)。「第二部 追想のなかの三島由紀夫――(一)二つの遺作」(佐伯 1988, pp. 77–126)に所収
- ^ a b c 村松剛「解説」(荒野・中公 1975, pp. 313–319)。「I 三島由紀夫――その死をめぐって 『荒野より』」(村松・西欧 1994, pp. 30–37)に所収
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- ^ 澁澤龍彦「絶対を垣間見んとして……」(新潮 1971年2月号)。澁澤 1986, pp. 75–85に所収
- ^ 大野晋『日本語練習帳』(岩波新書、1999年1月)
- ^ 井上隆史編「作品目録――昭和45年」(42巻 2005, pp. 456–460)
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- ^ 三島由紀夫「ドナルド・キーン宛ての書簡」(昭和45年2月27日付)。ドナルド書簡 2001, pp. 190–192、38巻 2004, pp. 447–449に所収
- ^ a b 徳岡孝夫「第八章 いつ死ぬ覚悟を?」(徳岡 1999, pp. 209–210)
- ^ a b c d 鈴木亜繪美「第一章 曙(五)『楯の会』百人の兵隊――五期生 須賀清の証言」(火群 2005, p. 69)
- ^ 田中美代子「解説――まだ文学が神聖だった頃」(遍歴エッセイ 1995, pp. 275–282)
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