広島城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 07:13 UTC 版)
歴史
前史
この地は太田川下流域にあたり、上流から堆積した土砂が三角州を形成し、中世には小島や砂州に小規模な集落が点在していた[21][22]。
承久の乱以降、その戦功により安芸国守護に命じられた武田氏により当地は治められていたが、戦国時代になると毛利元就が武田氏を滅ぼし厳島の戦いで陶氏(大内氏)に勝利したことにより、以降当地は毛利氏によって支配されることになる[22][23]。
それまでの毛利氏の居城である吉田郡山城は、尼子氏の大軍を撃退した経験を持つ堅固な山城であり、また山陰・山陽を結ぶ場所に位置するため、領土の争奪戦を伴う戦国時代の毛利氏には適していた[24]。
だが、元就の孫・毛利輝元の時代、天正末期になり天下が安定する頃になると、それまでの防護を主目的とした城造りから、城を権力の中心としてシンボル化しその周りを城下町として整備し領国の政務・商業の中心地として発展させる「近世城郭」建築の時代になる[24]。中国地方9か国112万石(小早川や安国寺ら含めると150万石以上)の太守であった毛利氏にとって、山間部の山城である吉田郡山城は、政務および商業ともに手狭なものとなり始めた[24][25]。そこで、海上交易路である瀬戸内の水運が生かせ、城下町の形成が可能な平野がある海沿いへ拠点を移すことを考え始めた[24]。
1588年(天正16年)、輝元は豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛し、大坂城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したと言われている[19][24]。一説には永禄年間(1558年-1569年)の輝元の祖父である元就のころから現在の広島の平野部(一説には比治山)への築城構想はあった[22] という。
築城
1589年(天正17年)2月、輝元は現地調査のため吉田郡山を出発し、明星院山(現東区二葉山)・新山(現東区牛田)・己斐松山(現西区己斐[† 2])の3箇所に登り太田川下流域を検地した結果、「最も広い島地」である五箇村(あるいは五ヶ村・佐東五ヶ)に築城することに決めた[12][23][24]。
1589年(天正17年)4月15日鍬入れ式[27]。穂井田(穂田)元清と二宮就辰を普請奉行として、築城が開始された[27]。城の構造は大坂城を参考として、縄張は聚楽第に範を取っているといわれる。
1590年(天正18年)末、堀と城塁が竣工したことから、1591年(天正19年)1月8日に輝元は入城した[23][24][27]。1592年(文禄元年)4月、文禄の役を指揮するため名護屋城へ向かう途中の秀吉がここへ立ち寄って城内を見物している[19]。1593年(文禄2年)石垣が完成、1599年(慶長4年)に全工事が完了し落成した[24]。なお「広島」という名はこの頃に付けられたと言われている(詳細は広島市#市名の由来参照)[25]。
完成当初は、堀は三重に巡らされ馬出を多数備える実戦的な城構えで、当時の大坂城に匹敵する規模の城だった[25] といわれるが、関ヶ原の戦いで減封されて広島を去った毛利輝元に代わって、1600年(慶長5年)城主となった福島正則による改築[28] があり、築城当時の広島城がどのような姿であったかについての詳細は不明[† 3]である。
藩政時代
福島氏時代、穴太衆を雇入れ、毛利氏時代に不十分だった城の整備および城下町づくりが本格的に行われた[12][28]。外郭が整備され、内堀・中堀・外堀のある約1キロメートル四方の広大な城となったのはこの頃である[12][28]。二葉の里付近から城の北側を通っていた西国街道を城下の南側を通るように付け替える[28] とともに雲石街道を整備[† 4]したといわれ、町人町が拡大[28] した。この大規模な城整備と城下町作りは徳川家康を怒らせ、1609年(慶長14年)正則は謹慎を言い渡されている[19]。さらに、1619年(元和5年)、正則は洪水による被害の修復を幕府から武家諸法度を破った無届け改築ととがめられ、改易され信濃国川中島へ転封された[28]。
同1619年(元和5年)8月8日、浅野長晟[† 5]入城以降は浅野氏の居城となり、明治時代に至るまで12代約250年間続いた[29]。
武家諸法度の縛りがあるため容易に改修できないことから[19]、広島城の改修は福島氏の段階で完了していたと考えられていたが、近年の調査で一部の櫓台石垣は浅野氏時代に構築されたと判明している[29]。浅野氏時代には城普請はほぼ行われなかったが、大規模な干拓事業は引き続き行われ、約250年間で当初の域より5から6倍規模にまで広がった[23]。また洪水にたびたび悩まされており、洪水被害やそれを修復した記録が多数残っている[19][29][30]。地震の被害にもあっており、1624年(寛永元年)安芸国を震源地とした地震では石垣や多門・櫓・塀などが崩壊したことを最初に、以降数度地震災害の記録が残っている[31]。
1864年(元治元年)第一次長州征討の際、徳川慶勝を総督とする幕府軍の本営となる[29]。この際、慶勝によって撮影された幕末の広島城の写真が現在徳川林政史研究所に残る[32]。戊辰戦争になると広島藩は官軍として戦ったため、城に被害はなかった。つまり、築城から江戸時代の間、この城は戦の舞台にはならなかったことになる[15]。
-
寛永年間広島城下絵図。天守や櫓の位置は不正確であるが、町並は正確に描かれている。
-
広島の新開地発展図。築城から昭和初期までの土地開発遍歴が記載されている。
近代
1871年(明治4年)7月14日、廃藩置県。浅野氏による藩政体制は終りをつげ広島県が発足し、本丸に広島県庁舎が設置された[33]。同年12月、本丸に鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)第一分営が置かれると県庁舎は三の丸に移転した[33]。1873年(明治6年)1月、広島鎮台が正式に発足し、以降広島城には大日本帝国陸軍の施設が建てられるようになる[33]。1873年(明治6年)3月、三の丸に兵営が置かれる[33] と、県庁舎は国泰寺へ移っていった。1875年(明治8年)4月歩兵第11連隊設置、同年6月西練兵場設置[33]。一方で解体や火事により江戸時代の建物は失われており[33]、特に1874年(明治7年)本丸および二の丸で起こった火災では、本丸御殿が全焼した[27]。
1887年(明治20年)、広島の開基地ということから、旧城廓内であるこの地を正式に「基町」と名付けられたと言われている[34]。
1888年(明治21年)5月、広島鎮台は第五師団に改編されると本格的に軍としての機能を拡大させ、広島市は軍都として近代都市へと発展していった[33][35]。当時は基町全域が軍用地であった[34]。
1894年(明治27年)7月、日清戦争が勃発すると城内に広島大本営が設置される(設置理由など詳細は広島大本営を参照)[33][35]。同年9月15日から1895年(明治28年)4月27日まで明治天皇は広島に行幸した[35]。これに伴い第7回帝国議会も広島で召集され、短期間ながら臨時首都として機能した[33][35]。なお、大本営解散の後は「史蹟明治二十七八年戦役広島大本営」として保存されていた。当時、従軍記者として訪れた正岡子規は1句残している[34]。
春暁や 城あらはるる 松の上 — 正岡子規、[34]
1897年(明治30年)4月、広島陸軍地方幼年学校(のちの広島陸軍幼年学校)が城内に設置される[35]。
日清戦争および日露戦争以降、広島市は爆発的に人口増加していき、その中で広島城の堀の悪臭が目立つようになる[33][35]。そこで明治40年代になると市により外堀や城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川の埋め立てが始まり、1911年(明治44年)11月外堀埋立完了、1912年(大正元年)西塔川埋立完了、1915年(大正4年)平田屋川埋立(減幅して溝に)完了した[33][35]。その埋め立てられた土地には、1912年から1918年(大正7年)にかけて道路(相生通りや鯉城通り)や広島電気軌道(広島電鉄本線・広島電鉄宇品線・広島電鉄白島線)が整備されると、旧外堀の一部は繁華街となっていった[35][36]。
その中で広島城の歴史的価値を見出され、1926年(大正15年)10月大本営跡が史跡指定。それまで軍の敷地であったことから立入禁止だったが1928年(昭和3年)天守の一般開放が開始されている[37]。1931年(昭和6年)1月天守が国宝保存法の国宝(旧国宝)に指定される[33]。
-
1880年(明治13年)の広島市地図。鎮台が置かれた直後であり、江戸時代からの町割・堀がそのまま記載されている。
-
1945年の広島市地図。米軍作成。この時点では外堀は消え、中堀も一部を除きほぼ消滅しているとわかる。
太平洋戦争末期
画像外部リンク | |
---|---|
広島県立文書館所有の絵葉書。 | |
[絵葉書](原爆記念 大本営跡) ※広島城天守閣跡 |
-
被爆前の市内中心部。同心円の中心が爆心地。右上の矩形が広島城。
-
被爆後。
太平洋戦争末期には本土決戦に備え、1945年(昭和20年)4月第二総軍司令部が二葉山麓の東練兵場そばにあった元騎兵第五連隊兵舎に置かれた[38]。さらに同年6月には広島師管区司令部が中国軍管区司令部に改編され、本丸に司令部を置き、本丸の南端で内堀の石垣に沿ってシェルター化した防空作戦室(現在の中国軍管区司令部跡)を建設した。
また太平洋戦争末期まで、天守、東走櫓、裏御門の一部、中御門、表御門、二の丸の平櫓、多聞櫓、太鼓櫓など、江戸時代からの建物が残っていた[33]。ただこれらの施設には軍の重要書類が多数積み込まれていた[39]。市内には高いビルが建設されていたが、まだこの当時は天守を市内のどこからでも見ることができた[34]。また軍施設ということから一般人の立ち入りは許可されていなかった[40] が、司令部では学徒動員で比治山高等女学校(現比治山女子高校)生徒[† 6]が働き、臨時ニュースを放送するときのためにNHK広島放送局アナウンサーが待機していた[41]。
1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下。軍事施設が集中していたことから、破壊目標となった[42]。ここは爆心地からほぼ1キロメートル離れたところに位置した[43]。 建物が爆風により一瞬にして倒壊、火災により焼失している[33][39]。なお天守は爆風や火災によるものではなく、自壊している(下記天守の項を参照)[44]。樹木は、根こそぎ引きぬかれたものや、真ん中から裂けたり折れたりしたものが多数だった[40]。兵士は食事中あるいは朝礼最中の事で[45]、彼らは軽々と吹き飛び[39]、あるものは即死[46]、またあるものは倒壊した建物により圧死した[47]。生き残ったものはほぼ北[† 7]へ逃げている[40]。中国軍管区司令官藤井洋治陸軍中将は西練兵場南西端にあった庁舎で被爆しそこで死んでいる[40]。当時ここ一帯には約1万人の兵士がいたが、建物と共にすべての部隊は壊滅した[49]。
唯一倒壊せず原型をとどめていた建物が防空作戦室だった[39]。ここから被爆の第一報を通信している(詳細は中国軍管区司令部跡および広島市への原子爆弾投下#第一報 8月6日参照)。
火災が収まると、逃げ切れなかったものを手当てするため城内に臨時救護所が設けられたが、薬品不足など十分な医療行為が行えない事情から、そのまま死んでいくものも多かった[50]。 翌8月7日、松村秀逸中国軍管区参謀長による指揮の下、防空作戦室前にテントを設け、軍の再建を図ることになった[50]。8月15日終戦。8月16日、停戦および復員命令が下され、9月から11月にかけて各部隊は解散した[51]。中国軍管区は11月末に一旦解散後、第一復員省中国復員監理部として再編された[51]。
現代
戦後、西練兵場で中国からの引揚者が開墾し始めた[51]。1948年(昭和23年)になるとそこに市営の住居が建っており、1949年(昭和24年)には川沿いにバラックが建ち始め[51]、後に原爆スラムが形成される。官公庁の庁舎も建ち始め、広島児童文化会館建設が決まるなど、周囲は再開発されていった[52]。
ただ、本丸および二の丸は用途の決まらないまま放置され、草むらと化していた[43]。市民の中では当初、内堀を埋め立て平地にし再開発を唱えるものもいた[43]。平和運動の一環として長田新旧制広島文理大学教授を中心に、本丸に自由の女神のレプリカを建てる運動も起こった[43][53]。市や市議会は大本営跡を原爆記念保存物に選ぶなど被爆により荒廃した広島で新たな観光の目玉を欲していた[54] ことから天守再建を望んだが、文化財関係者は被爆により廃墟になった現状こそ価値があると再建反対に回った[55]。なお、被爆数年後の本丸の映像は1952年公開の新藤兼人監督『原爆の子』で見ることが出来る[56]。
1951年(昭和26年)、広島国体にあわせて木造仮設天守が作られた(#2代目(仮設))[33]。地元紙中国新聞は以下の報道をしている。
あの水都の象徴であった鯉城が原爆以来五年目にふたたび出現、広島市民の郷愁を呼び起こしている。 — 1951年3月13日付中国新聞、[15]
国体終了後に解体されたが、後の天守再建の機運へとつながった[33][57]。
1953年(昭和28年)3月31日、城跡が国の史跡に指定されると天守再建の機運が高まった[33]。戦後の高度経済成長の中で、1958年(昭和33年)市制70周年を迎えるにあたり広島復興大博覧会開催が決まり、広島平和記念資料館開館と共に博覧会の目玉として天守再建が決定した[33][58]。これには渡辺忠雄市長と市側の復元への強い想いが大きく作用した[55]。1957年(昭和32年)10月20日着工、翌1958年3月26日竣工[33]。同年6月1日、広島城郷土館(現在の博物館)が開館した[33]。また、この時期に広島護国神社が本丸に移転再建し、中堀も埋め立てられ[59] 内堀だけとなった。
築城400周年・市制100周年を迎えたことにより改修を行い、1989年(平成元年)から1994年(平成6年)にかけて、二の丸の復元や堀の浄化作業が行われ、博物館も展示内容を見なおされている[33][59][60]。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(73番)に選定された。再建天守の老朽化が進んだため、現状からの耐震改修の他、木造再建も検討されている[61]。
- ^ 城が置かれた土地は当初は在間庄と呼ばれた[16]。
- ^ 元就にゆかりがある旭山神社で輝元は見分した[26]。
- ^ 『芸州広島御分国八州之時御城下屋敷割并神社仏閣割共図』など毛利氏時代の町割りを書いた絵図が存在するが、これらは江戸時代に書かれたものであるため信頼性が低い。
- ^ 一説には毛利輝元時代。
- ^ 正室は家康の三女正清院。
- ^ 当時、比治山女学校は偕行社附属学校で生徒の多くが高級軍人の子女であったことから入ることを許可された[41]。
- ^ 北方向の牛田に工兵第5連隊作業場があった[48]。
- ^ 八丁堀は約8町あった東面外堀にちなむ。
- ^ 例えば、広島城内堀の南に位置する広島市中央庭球場は中堀があった場所であり、アジア大会開催前の整備工事の際に大規模な発掘調査が行われたり[97]、紙屋町シャレオは外堀があった場所であることからその建設工事中の合間を縫って夜間に発掘調査が行われた[12]。
- ^ 所有者の祖先は広島藩士で、藩主である浅野氏から譲り受けたと伝えられていた[109]。
- ^ a b c 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
- ^ a b 学習研究社編『【決定版】図説 国宝の城』学習研究社、2010年、ISBN 978-4-05-605966-3
- ^ 中城正尭・福代徹執筆、(財)日本城郭協会監修、学習研究社編『日本100名城 公式ガイドブック』学習研究社、2007年、ISBN 978-4-05-604638-0
- ^ “中央公園(史跡広島城二の丸周辺)”. 国土交通省. 2012年4月14日閲覧。
- ^ a b c d “しろうや!広島城 第3号” (PDF). 公益財団法人広島市文化財団広島城. 2022年4月1日閲覧。
- ^ 広島市公園条例 - 広島市
- ^ ひろしまフードフェスティバルの開催について - 広島県
- ^ 中央公園の今後の活用に係る基本方針(令和2年3月) - 広島市
- ^ “岡山城”. 岡山観光コンペティション協会. 2012年4月4日閲覧。
- ^ a b c “しろうや!広島城 第29号” (PDF). 公益財団法人広島市文化財団広島城. 2022年4月1日閲覧。
- ^ a b c しろうや!広島城 No.39 - 広島市
- ^ a b c d e f g 広島市歴史科学教育事業団. “広島城外堀跡紙屋町交差点地点” (PDF). ひろしまWEB博物館. 2012年4月15日閲覧。
- ^ a b c d e “しろうや!広島城 第15号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ 玉置和弘. “広島城と鯉城”. 広島城. 2012年4月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “しろうや!広島城 第9号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e “広島城跡”. 広島県. 2012年4月28日閲覧。
- ^ “しろうや!広島城 第49号” (PDF). 広島城公式. 2016年9月25日閲覧。
- ^ “広島城の金箔瓦について”. 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g 財団法人広島市文化財団; 株式会社島田組 (2007年6月). “広島城跡国保会舘地点” (PDF). ひろしまWEB博物館. 2012年4月4日閲覧。
- ^ 玉置和弘. “広島城の金箔瓦について”. 広島城. 2012年4月1日閲覧。
- ^ #原爆戦災誌、p.5。
- ^ a b c “築城前の広島”. 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b c d #原爆戦災誌、p.6。
- ^ a b c d e f g h “広島城築城”. 広島城公式. 2012年3月26日閲覧。
- ^ a b c 濱口和久 (2012年1月27日). “毛利輝元が威信かけた広島城”. zakzak. 2012年3月28日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “己斐から宮島、毛利散歩”. 西広島タイムス (1997年1月1日). 2003年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月18日閲覧。
- ^ a b c d e f “広島城 パンフレット” (PDF). 広島城公式. 2012年4月4日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c d e f “福島氏の入国と改易”. 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e “浅野氏の治世”. 広島城公式. 2012年3月26日閲覧。
- ^ a b c “太田川の洪水とその克服”. 国交省太田川工事事務所. 2012年3月28日閲覧。
- ^ a b “災害の記録と記憶” (PDF). 広島県文書館. 2013年2月21日閲覧。
- ^ “徳川林政史研究所所蔵写真資料目録” (PDF). 徳川林政史研究所. 2012年4月3日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v “近代の広島城”. 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e #原爆戦災誌、p.303。
- ^ a b c d e f g h #原爆戦災誌、p.7。
- ^ a b c “しろうや!広島城 第5号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b c “広島城天守閣・三代の歩み”. 広島市. 2012年1月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年5月11日閲覧。
- ^ “第二総軍司令部の設置”. 広島平和資料館公式. 2012年4月8日閲覧。
- ^ a b c d e #原爆戦災誌、p.305。
- ^ a b c d #原爆戦災誌、p.308。
- ^ a b “中国軍管区司令部地下壕”. (比治山高校教員によるHP). 2012年4月28日閲覧。
- ^ #原爆戦災誌、p.27。
- ^ a b c d “しろうや!広島城 第2号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b “広島城天守閣は自壊 原爆爆風説を覆す 学芸員が推定”. 中国新聞 (2010年7月15日). 2012年4月1日閲覧。
- ^ #原爆戦災誌、p.304-p.305。
- ^ #原爆戦災誌、p.263。
- ^ #原爆戦災誌、p.307。
- ^ “広がる軍用地”. 広島市平和記念資料館. 2012年8月18日閲覧。
- ^ #原爆戦災誌、p.309。
- ^ a b #原爆戦災誌、p.313。
- ^ a b c d #原爆戦災誌、p.314。
- ^ #原爆戦災誌、p.315。
- ^ “ヒロシマの記録1947 7月”. ヒロシマ平和メディアセンター. 2012年3月31日閲覧。
- ^ “ヒロシマの記録―甦る「原爆十景」”. 中国新聞 (2007年4月30日). 2007年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年3月31日閲覧。
- ^ a b c d e f “しろうや!広島城 第10号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b “鯉城の痕跡”. 中国新聞 (2011年4月9日). 2013年4月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月3日閲覧。
- ^ しろうや!広島城
- ^ “広島復興大博覧会の開催”. 広島平和記念資料館公式. 2012年3月27日閲覧。
- ^ a b c d e f “しろうや!広島城 第14号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ “広島城”. 広島県観光. 2012年3月28日閲覧。
- ^ 広島城天守閣 “木造復元”を提案 あり方懇談会「価値さらに高まる」
- ^ a b c “しろうや!広島城 第19号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b c 小谷俊哉「広島市都市形成発祥の地における空間構造の変遷に関する研究」(PDF)『土木史研究』第16巻、土木学会、1996年6月、327-334頁、2015年5月5日閲覧。
- ^ a b c d e “しろうや!広島城 第4号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ 玉置和弘. “広島城の痕跡”. 広島城. 2012年4月1日閲覧。
- ^ a b “しろうや!広島城 第47号” (PDF). 広島城公式. 2016年4月27日閲覧。
- ^ “寺町界隈”. 広島市. 2013年2月24日閲覧。
- ^ “みち紀行”. 中国新聞. 2014年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月3日閲覧。
- ^ a b c “大鳥居”. 宮島観光協会. 2012年3月28日閲覧。
- ^ a b c 玉置和弘. “広島城に関する基礎データ”. 広島城. 2012年3月28日閲覧。
- ^ a b 西田ひかり. “広島城下町の形成と治水事業”. 信州大学. 2016年10月16日閲覧。
- ^ “縮景園の歴史”. 縮景園. 2012年5月21日閲覧。
- ^ a b “しろうや!広島城 第6号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ “ひろしま市民と市政 四季号2017春” (PDF). 広島市. 2018年12月11日閲覧。
- ^ 山﨑一郎 (2009年). “基調講演 中国山地でのたたら製鉄” (PDF). 太田川アクティブアーチ. 2018年12月11日閲覧。
- ^ a b “広島城天守閣、完成年判明”. 中国新聞 (2012年8月27日). 2012年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月27日閲覧。
- ^ a b “しろうや!広島城 第32号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b “しろうや!広島城 第8号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ 玉置和弘. “コラム4 原爆で広島城天守閣は焼けなかった”. 広島城. 2012年4月6日閲覧。
- ^ a b “復興の風 1958年 広島城 天守閣再生 活気を呼ぶ”. 中国新聞 (2012年7月23日). 2015年10月6日閲覧。
- ^ “フジタのある街> 広島城”. フジタ. 2012年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月3日閲覧。
- ^ 三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて』学習研究社 2007年
- ^ 歴史群像編集部編『【決定版】図説 厳選日本名城探訪ガイド』学習研究社 2009年
- ^ a b c d 広島城天守閣、25年度閉館 耐震不安、三の丸に代替展示施設 中国新聞、2021年12月11日閲覧。
- ^ 広島城天守閣耐震対策について - 広島市
- ^ 【公式】広島城天守閣の木造復元を実現する会
- ^ a b c 玉置和弘. “本丸上部部分”. 広島城. 2013年2月23日閲覧。
- ^ 広島市歴史科学教育事業団. “史跡 広島城跡本丸”. ひろしまWEB博物館. 2013年2月23日閲覧。
- ^ a b “しろうや!広島城 第24号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ 広島県教育委員会『広島城外郭櫓跡発掘調査概報』、1980年
- ^ a b c d e f g “広島城の現状と課題等”. 広島市. 2023年4月23日閲覧。
- ^ a b “工事経歴(文化財関係)”. 砂原組. 2005年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月6日閲覧。
- ^ “広島城太鼓櫓の見学について”. 広島市公式. 2012年4月6日閲覧。
- ^ a b c “しろうや!広島城 第7号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b c d “しろうや!広島城 第16号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ “しろうや!広島城 第26号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
- ^ “広島城遺跡中堀跡”. 広島市未来都市創造財団. 2012年4月10日閲覧。
- ^ “堀川浄化事業”. 国土交通省太田川工事事務所. 2012年4月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k “広島城の金箔鯱瓦出土 ほぼ完全形、全国初”. 中国新聞 (2009年3月5日). 2009年3月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月1日閲覧。
- ^ a b c “広島城跡から金の鯱瓦がほぼ完全形で発見 全国で初めて”. 朝日新聞 (2009年11月30日). 2012年4月1日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b c 佐藤大規 (2009年12月25日). “広島城出土の金箔鯱瓦についての考察” (PDF). 広島大学総合博物館研究報告. 2012年4月4日閲覧。
- ^ “鯱形金箔瓦、広島で製造か”. 中国新聞 (2009年11月29日). 2012年7月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月5日閲覧。
- ^ “秀吉ゆかり?金箔瓦が出土 朝鮮出兵の後方拠点か”. 共同通信 (2009年6月23日). 2014年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月4日閲覧。
- ^ “クロガネモチ(広島城跡)”. NHK広島放送局. 2012年3月28日閲覧。
- ^ “ユーカリ・マルバヤナギ(広島城二の丸跡)”. NHK広島放送局. 2012年3月28日閲覧。
- ^ a b 玉置和弘. “学問所土蔵跡”. 広島城. 2012年4月23日閲覧。
- ^ “沿革”. 修道中学校・修道高等学校. 2016年10月16日閲覧。
- ^ a b c “広島城から移築?土蔵復元へ”. 中国新聞 (2010年9月18日). 2010年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月5日閲覧。
- ^ “同窓会報修道No.73” (PDF). 修道中学校・修道高等学校. 2012年5月18日閲覧。
- ^ a b “江戸後期の土蔵、近く解体へ”. 中国新聞 (2010年4月3日). 2014年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月5日閲覧。
- ^ “修道学問所(仮称)移築・復元事業に係る募金について”. 修道中学校・修道高等学校 (2011年12月16日). 2013年5月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年4月5日閲覧。
- ^ “修道中学校・高等学校に設置の旧重谷家土蔵が広島市指定重要文化財に指定されました | 2019年お知らせ一覧”. 学校法人 修道学園サイト. 2023年7月13日閲覧。
- ^ a b “広島城三の丸にぎわい施設や多目的広場、広島市がPark-PFIで整備”. 日経BP (2022年12月18日). 2023年4月23日閲覧。
- ^ “中央バレーボール場の閉鎖について”. 公益財団法人広島市スポーツ協会. 2023年4月23日閲覧。
- ^ “観光バス駐車場、広島城の堀沿いに完成 広島市中央バレーボール場跡地、従来の三の丸から移転【変わる街】”. 中国新聞 (2023年4月22日). 2023年4月23日閲覧。
- ^ “しろうや!広島城 第12号” (PDF). 広島城公式. 2016年10月16日閲覧。
固有名詞の分類
- 広島城のページへのリンク