広島城築城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)
天正17年(1589年)4月以降、輝元は当時の交通の要衝である太田川の三角州(当時の名称は五箇村)に、広島城の築城を開始した。 広島城は輝元が上洛時に見聞した聚楽第や秀吉の居城・大坂城に感化されて築城されたものである。また、この城は豊臣政権の強い影響下で築城されたという見解もある。他方、この城は太田川の三角州を開拓することにより毛利氏領国の首都機能を集約する意図があったとされ、輝元の意向で築城されたものであって豊臣政権の影響下で築城されたものではないとする説もある。 天正18年(1590年)2月、秀吉が後北条氏に対する小田原征伐で関東へと赴くと、輝元はその留守を守るため、京都警固を務めた。 天正19年(1591年)3月、輝元は秀吉より知行目録を与えられ、112万石の所領を安堵された。 また、同月には広島城が概ね完成し、輝元は長年の毛利氏の居城であった吉田郡山城から広島城に移った。秀吉の聚楽第や大坂城を模したこの城は、毛利氏領国の首都機能を集約し、輝元の権威を象徴するものとなった。
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