広島商業学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 04:48 UTC 版)
低迷していた母校広島商業の試合を久しぶりに見た石本は、あまりの不甲斐なさに激怒。自ら志願して26歳で監督に就任すると野球の鬼と化した石本は、練習が終わると誰も立ち上がれない程の超スパルタ式練習を課した。さらに有名な日本刀の刃渡りなどで鍛えた精神野球と 機動力またバントを駆使して取った1点を堅い守備で守り切る、そつの無い野球で1924年広島県勢、また近畿以西として、また実業学校として初優勝。及び「甲子園」初代王者。一旦辞めたが復帰し1929年、1930年、1931年と灰山元治、鶴岡一人らを率いて計4度の全国制覇を成し遂げた(1929・1930年は夏連覇、1930・1931年は史上初の夏春連覇)。春夏6回の全国大会出場で4度の全国制覇。4度の優勝は他に先駆けた偉業であった。バントや足技で相手の意表を突く「広商野球」、全国に古豪は数あれど、校名がそのまま野球スタイルになっているのは広島商だけである。その「広商野球」を築き上げたのが石本である。高校野球の世界では、わずか10年にも満たない石本の監督歴だが、後世に残した足跡は計り知れない。戦前の夏の甲子園、最高の監督との評価もされる。
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