旧三の丸の遺構とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 旧三の丸の遺構の意味・解説 

旧三の丸の遺構

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:16 UTC 版)

広島城」の記事における「旧三の丸の遺構」の解説

多家神社宝蔵 校倉造りだが、他に例の少な四角形に近い断面六角形校木使用している。 上記通り近代軍用地として拡張し被爆により建物全壊戦後都市開発により、藩政時代面影を残すものは極めて少ない。ただ明治期移築した広島城建物はいくつ現存している。 多家神社多家神社」を参照 安芸郡府中町にある神社で、元々は三の丸にあった稲荷社1874年明治7年)に移築されたもの。その後火災により焼失し宝蔵のみが現在旧広島城時代建物としては唯一のものとなっている。 1954年昭和29年)、多家神社宝蔵広島県重要文化財指定された。 学問所 2010年広島城土蔵解体前 別の角度より 学問所は、江戸時代後期三の丸存在し跡地は現在広島高等裁判所敷地 として利用されている。1725年享保10年)に広島藩浅野吉長が「講学所」として開校した藩校前身であり、1782年天明2年2月学問所開校1870年明治3年8月移転し、現在は修道学園修道中学校・修道高等学校)として存続している。以下は学問所関連遺構である。 土塁跡 - 裁判所敷地内にある、中堀内側石垣土塁跡であり、中堀外側学問所があった。城址公園以外で地表からわかる土塁跡としては唯一ののである。なお裁判所敷地内ということから許可なく見学することはできない土蔵 - 間口3.8メートル×奥行5.7メートル2階建の土蔵明治時代の間に、市内愛宕町(現東区)に住む民間人ところへ移築し被爆にも耐えた(爆心地からの距離は不明だが3キロメートル前後)。平成入り、瓦が落ちそうになるほど老朽化したため取り壊されるところだった。そこへ学問所土蔵ということ判明し関係者保存動いた結果修道学園無償引取り校内復元移築した

※この「旧三の丸の遺構」の解説は、「広島城」の解説の一部です。
「旧三の丸の遺構」を含む「広島城」の記事については、「広島城」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「旧三の丸の遺構」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「旧三の丸の遺構」の関連用語

1
2% |||||

旧三の丸の遺構のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



旧三の丸の遺構のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの広島城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS