旧万寿寺とは? わかりやすく解説

旧万寿寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/09 16:49 UTC 版)

万寿寺 (大分市)」の記事における「旧万寿寺」の解説

伝説では、平安時代初期百合若大臣というこの地域有力者屋敷不在にしていた間に反逆起き家臣の娘の万寿姫が妃の身代わりとなって蔣ヶ池(まこもヶ池)に沈められ、その菩提を弔うために建立されたのが万寿寺であるとされるまた、現在の山号の蔣山も蔣ヶ池に因むものだという。 実際には、1306年徳治元年)、大友氏5代当主大友貞親が、足利泰氏の子博多承天寺住職の直翁智侃和尚開山迎えて現在の元町開いたもので(荒廃していた寺院再興したともされる)、室町時代初期には十刹に列せられた。第6代当主大友貞宗の代には、雪村友梅、天境霊致、中巌円月らの名僧万寿寺訪れた南北朝時代には、高崎山城拠点を置く北朝方を攻める際に、南朝方の菊池氏らがこの寺に本拠置いた当寺はたびたび兵火火災により焼失しており、記録残っている大火だけでも1486年文明18年)、1492年明応元年)、1514年永正11年)、1586年天正14年)の4度に及ぶ。このうち1586年天正14年)には、島津軍豊後侵入豊薩合戦)により、府内の街もろとも焼失しその後長らく再建されることはなかった。なお、信頼性に劣る資料であるが、江戸時代軍記物両豊記』によれば1570年元亀元年正月に、嫌疑かけられ大友家家臣万寿寺かくまったため、大友義鎮(宗麟)が万寿寺焼き払うよう下知したという。また、大友記でも、キリスト教改宗した義鎮(宗麟)が魔宗である豊後国中の大寺大社破却するように命じ万寿寺に火をかけたとしている。 中世府内中心部位置する大友氏館跡及び旧万寿寺跡は近年発掘調査進んでおり、旧万寿寺の遺構からは、「紅地金襴手宝相華文碗」(こうじきんらんでほうそうげもんわん、国内初出土)や「褐釉陶器水注」(かつゆうとうすいちゅう国内で2例目の出土)といった希少な陶磁器等が発掘されている。2005年平成17年)には、すでに国の史跡指定されていた大友氏館跡に、万寿寺跡が追加指定されるとともに史跡の名称が大友氏遺跡変更されている。

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