多摩川 歴史

多摩川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 15:52 UTC 版)

歴史

歌川広重『江戸近郊八景』より「玉川秋月」。現在の東京都調布市近辺から川崎市多摩区方面を望んだものであるという。

多摩川は中流以降、青梅を扇頂とする広大な扇状地を形成し、現在の武蔵野台地の基盤となった。また、その他にあった全ての丘陵(狭山丘陵を除く)を削り去り平坦な地を作った。

数万年前以降、武蔵野台地の隆起により多摩川中流はこの台地の南縁へ押しやられ、現在のように多摩丘陵の北縁を流れるようになった。

流域では旧石器時代以降の遺跡古墳が見つかっており、沿川には早くから人が定住していた様子がうかがえる。

歌枕としての多摩川

古代には多摩川は「六玉川(むたまがわ)」の一つ、「調布の玉川」として知られ、多摩川にまつわる和歌が『万葉集』や勅撰和歌集に数多く収録された。

伝承・宗教

多摩川にまつわる民間伝承や宗教的な言説は少なくない。代表的なものとしては、日蓮宗系の宗教集団内において数多く描かれた日蓮入滅図がある。日蓮は1282年9月に瀬谷で多摩川を渡り、現在の池上本門寺の場所にあった信徒の邸宅に入って翌月にそこで没している。その後、釈迦入滅図に見立てた日蓮入滅図が数多く描かれ、それらに多摩川が描かれることとなった。

また多摩川流域には、多摩川から引き上げられたとされる本尊神体を祀った社寺が10以上も存在する。最も上流にあるのは東京都福生市の関上明神社で、次いで東京都調布市深大寺、川崎市多摩区登戸善立寺や長念寺、東京都世田谷区上野毛六所神社、同瀬田行善寺、大田区西六郷安養寺、同東六郷観乗寺などとなっている。こうした漂着神以外にも、東京都府中市にある大國魂神社の三の宮の御輿は、かつては是政で多摩川の水中に沈められる、いわゆる水中渡御が行われていた。

この他、矢口の渡しで謀殺されたとされる新田義興御霊伝説も広く知られている[20]

1831年には宿河原村にあった松の枯れ木「綱下げ松」に霊験があるとの噂が立ち、江戸からの観光客が大挙して押し寄せ、騒ぎは翌年まで続いた。風紀紊乱を問題視した江戸幕府が徹底的にこれを取り締まり、1833年には「綱下げ松」も伐採されてこの騒ぎは収束した[21]

利水

戦国時代豊臣秀吉の下で関東転封となった徳川家康は、多摩川下流の扇状地での水稲生産を拡大するため、1597年に用水奉行小泉次大夫に命じて両岸の灌漑用水路の建設に着手。1611年二ヶ領用水(右岸)と六郷用水(左岸)が完成した。その他にも、1604年頃より取水を始めたと推定されている大丸用水(右岸)や、1654年より取水を始めた玉川上水(左岸)などの用水路が相次いで整備され、それまで水利が芳しくなかった多摩川下流の低地・台地に豊富な農業用水をもたらし、の生産量が増大、江戸の生活を支えた。

鮎漁

多摩川は元々水質が良く、清流を好む鮎(あゆ、アユ)が多く棲んでおり、江戸時代、多摩川では鮎漁が盛んであった[22]浮世絵にも鮎漁の様子が描かれている[22]。多摩川のあゆは将軍家にも献上された[22]。幕府に納められていた多摩川の鮎は「御用鮎」と呼ばれた[23]。鵜を用いた鵜飼での鮎漁も行われ、鵜飼の鮎漁の写真も残っている[22]昭和初期まで鮎漁は盛んに行われており[22]、年配の地元住民が記憶しているように、水揚げされた鮎は食用にされていた[22]

だが昭和期に多摩川周辺の人口が増え水質が悪化すると、鮎漁は一旦途絶えた[22]。その後、水質改善のための努力が重ねられ水質が良くなり、鮎漁が復活した。最近、地元の漁師が多摩川のことや鮎漁のことを人々に知ってもらおうとの想いで鮎漁を復活させ、多摩川の鮎を出荷している[22]日本橋老舗百貨店三越」の食品売り場にも「江戸前のあゆ」として並んでいる[22]

江戸前すなわち東京湾から遡上する鮎を増やすため、多摩川上流に位置する東京都昭島市・日野市・あきる野市は2018年3月12日、「江戸前鮎を復活させる地域協議会」を発足させた[24]

砂利採掘

多摩川の川砂利採掘について触れた最も古い文献史料は江戸時代中期、宝暦3年(1753年)の日付がある、下丸子村の平川家文書である。これによると、下丸子村と上平間村に幕府から300坪分の砂利を納めるよう指示が下されたことがわかる[注 1]。続いて宝暦5年には源右衛門なる人物が多摩川の砂利を採掘する許可を幕府に申請し、代官所が上平間村から諏訪河原村までの13ヶ村の役人を呼び出して、この採掘に問題が無いかどうか検討させたとの記事もある。宝暦8年には幕府は多摩川砂利を御運上場としている。これは民間の業者を請負人として幕府向けの砂利採掘をさせるもので、江戸松嶋町与兵衛、川崎町源右衛門といった名前が請負人として記録されている。こうした体制は文化2年まで続き、文化3年(1806年)より、八幡塚、下平間、小杉、上丸子、上平間、小向、下沼部、下丸子、矢口、古市場、高畑の9ヶ村が共同で幕府御用の砂利採掘を請け負うこととなった。こうした体制は幕末まで続いた。多摩川砂利の需要は武家が8割、町方が2割と見られており、幕末になって武家に倹約令が敷かれると、多摩川の砂利採掘業は経営が立ちゆかなくなった。

明治以降、建築物にコンクリートが使われるようになると、多摩川はその原材料の一つである砂利の産地として注目された。また鉄道道床用や外航船のバラストとしても多摩川の砂利は多用された。砂利採掘が可能な場所は全国にあったが、需要が集中する首都圏に供給する上で、砂利の輸送コストが低く抑えられる多摩川に砂利採掘は集中していった。関東大震災後の建設ラッシュで砂利需要はピークに達し、大正時代が終わる頃には東海道線鉄橋より下流の砂利は採掘し尽くされていた。採掘場所は必然的に上流へのぼり、宮内、下野毛、北見方、諏訪河原、瀬田、二子はもとより、宇奈根、宿河原、登戸まで拡大した[25]

1922年(大正11年)の多摩川砂利の採掘量は115万トンで、翌年の全国の採掘量320万トンの3分の1を超えている[25]。この数字は日本最大の砂利生産量で、1935年(大正14年)度には145万トンに増加した[25]。過剰な砂利採掘により河床が低くなり、農業用水の取水が出来なくなったり、潮位によっては塩分を多く含む河口の水(塩水くさび)が遡行し、農業用水や水道原水に流入したりするといった被害が続出する環境問題に発展する。

また、河床低下により取水が困難となった用水路への対策として上河原や宿河原などに取水が築かれ、東京都の水道取水地があった調布(現在の田園調布)には塩分の逆流を防ぐための堰が築かれた。堰により水道・農業用水の取水は容易になったが、今度は多摩川名産の鮎の遡上を阻害することとなり、都市化が進む流域からの生活排水の垂れ流しによる水質汚染と相まって、多摩川での漁業生態系は壊滅的な被害を受けることとなった。さらに、宿河原堰の構造上の問題により洪水時に堤防を破る被害(狛江水害)も発生するなど、新たな問題が顕在化する。そこで内務省1934年2月に「多摩川砂利採取取締法」による取り締まりを実施し、1936年2月1日には二子橋より下流での砂利採掘が全面禁止されるに至った。

こうした環境保護のための規制が敷かれつつも、大きな利益を生む多摩川の砂利採掘業は止まるところを知らず、大小の採掘業者が乱立し、砂利採掘禁止区域内での盗掘が横行していた[26]。採掘された砂利は当初は主に船舶で搬送していたものの、大型建設が相次ぐ大需要地・東京に運ぶための鉄軌道敷設が各地で計画され、玉川電気鉄道南武鉄道京王電気軌道多摩鉄道東京砂利鉄道などが競って砂利輸送を行った。このうち南武鉄道などは公然と違法採取を行っていたことが記録に残っている[27]

第二次世界大戦後も東京都の立川市調布市アメリカ軍基地建設、そして高度経済成長による首都圏各地の工事需要で多摩川の砂利採掘は続き、堤防の内外には違法に採取された砂利の採掘跡が塹壕のように点在していた。これらの採掘穴には雨が降ると水が溜まり、子供が溺れるなどの被害も出た。最終的に青梅市内の万年橋より下流での砂利が全面採掘禁止となり、翌年には多摩川全域で砂利採掘が禁止された。

水質汚染とその回復

沿川の急激な都市化に伴う生活排水の流入、および支流の水源となっている多摩丘陵武蔵野台地での宅地開発に伴う森林破壊による水源枯渇が相まって、多摩川の水は著しく汚染された。

それまで飲み水を供給していた田園調布取水堰は、1970年に水質悪化で上水道に不適となった[28]1972年の11月1日と12月3日には、丸子橋から六郷橋にかけて魚が数百から数千匹が浮き上がる事象が発生。河川水からシアンが検出された。当時、多摩川周辺に9件のメッキ工場などがあり、立ち入り検査が行われたが流出させた工場は特定できなかった[29]。最も汚れていたのはこの1970年前後で、その後は下水道整備と排水規制により、水質が徐々に改善していった。

1981年に読売新聞記者の馬場錬成の働きかけで、多摩川にサケを放流する計画が始まった[30]。同年秋に「多摩川にサケを呼ぶ会」が結成され、1984年に最初のサケが遡上した[31]。当時日本の各地で実施されたカムバック・サーモン運動の一つである。多摩川にサケを呼ぶ会は東京にサケを呼ぶ会、多摩川サケの会と改称し、2010年まで放流を続けた[32]

また宿河原堰などへの魚道設置といった工夫と相まって、再び鮎が遡上するようになっており、白鷺コアジサシといった鳥類の採餌を支えるまでに回復してきている(「#生態系」を参照)。

現在では河川敷に親水施設などが設けられ、近隣住民の憩いの場として利用されるている。急激な水質汚染とその急回復を経験した多摩川は、環境保全に向けた更なる努力の必要性を象徴する場として、多くの市民活動の舞台ともなっている。

治水

多摩川は勾配が急な川で、先史時代から上記のような顕著な崖線を形成するほどの「あばれ川」である。先史時代の古墳や住居跡は氾濫原を避けた高台にあったが(例外として丸子には低地に古墳が築かれている)、集落は徐々に豊富な水を求めて川沿いに広がるとともに、常に洪水に悩まされるようになった。多摩川は土砂の流下と堆積が大きいため、氾濫の度に流路が変わった。多摩川には古来、畿内東国を結ぶ街道がいくつも渡っていたが、当時中国より伝わった技術でも暴れ川である多摩川への架橋は難しく、舟を連ねた舟橋か、渡船に頼った。また氾濫によって流路が変わることで流域の村落を分断してしまうこともは度々であった。現在のような流路に近くなったのは1590年の大洪水によると言われている。現在も多摩川の両岸に残る押立布田宇奈根、瀬田、野毛等々力丸子といった地名は、かつて一つの集落で、主に川の南側は洪水による荒れ野になっていたところである。明治22年の市町村制施行時には、これらの集落は多摩川が分断したまま東京府荏原郡、または神奈川県北多摩郡に属して飛び地になり、その後に境界の変更が行われている。これらの町名の南側で弧を描く地割や道路は、かつての多摩川の南岸である。

江戸時代以降も大洪水は頻発した。戦国時代が終わって軍事的な懸念も少なくなり、最下流には1600年東海道の架橋として六郷橋が架けられたが、頻繁に流されて財政を圧迫するために再建を断念。1688年から1874年までは他の街道同様に渡し舟となった。深刻だったのは上水の取水堰口の埋没や破壊である。江戸時代は流域も人口が急激に増え、特に武蔵野台地上は利水が難しく室町時代から多くの用水(玉川上水昭和用水府中用水二ヶ領用水など)が引かれていたが、洪水によって絶たれると耕作や飲水にも難儀した。

築堤は古くから行われていたようである。多くは霞堤であり、大洪水ではあえなく決壊して土地は流作地となっていた。江戸時代からの慣例で流作地では諸役や税が賦課されなかったが、1873年地租改正によりこれまで無税であった流作地にも課税されるようになり、村が自力で水害を乗り切ることができなくなってしまった[33]。しかし大規模な治水が行われないまま明治後半から大正初期にかけて大水害が頻発し、特に1910年関東一円を水浸しにした明治43年の大水害では、多摩川でも水害史上最悪と言われるほどの被害が出た[34]。しかし被害を大きくした要因は、富国強兵政策下での治水事業費の圧迫、さらに橋脚の建設、砂利の採掘、河川敷を利用した果樹栽培、川岸への工場の進出などの無秩序な工業化・都市化だったとされている[35]

以降は築堤の早期実現を求める河岸住民の声が高まることになる。1914年9月16日未明、御幸村選出の橘樹郡会議員、秋元喜四郎は、御幸、日吉住吉町田の各村民の計数百名とともに、神奈川県庁に大挙して陳情に向かった[36]石原健三神奈川県知事との面会が許されたが、知事は大挙陳情の不穏当を説諭するのみで、築堤については「考究中」を繰り返した[37]。当時は大挙しての陳情は取り締まりの対象となっており、全員がチョンボリガサ(編笠)をつけていたため、この行動は「アミガサ事件」として翌日の各新聞に大きく報道された[37]

着任早々の有吉忠一神奈川県知事は要望を受け入れ、工事は1916年2月から、上平間天神台から上丸子までの一帯で開始されたが、対岸の東京府側で反対運動が起こり、内務省の中止命令を受けた[38]。有吉知事はこの命令を無視し工事を続行、東京府との対立は妥協され、翌月10月に堤塘が完成した[38]。この強行工事で有吉知事は河川法違反と内務省の命令違反でけん責処分を受けたが、住民は知事の尽力を称えて新堤塘を「有吉堤」と名付けた[38]。現在のガス橋からバス通り沿いに、その名残が残されている[38]

1918年から内務省直轄の本格的な多摩川下流改修工事が始まる。途中、関東大震災により堤防に亀裂や陥没が入るなどの被害が出たが、遅延を含め15年の歳月をかけて1934年に竣工、河口から二子橋までが改修された[38]

その後、日野橋までの間の改修が進められて大規模な氾濫は少なくなるが、1974年には狛江水害が発生して大きく報道されテレビドラマ化(『岸辺のアルバム』)もされ、二ヶ領宿河原堰の北岸には「多摩川決壊の碑」が建てられている[39]

1990年からは、さらなる対策として、河口から日野橋までの区間をスーパー堤防(高規格堤防)とする整備事業が進められている。その後も集中豪雨台風などにより河川敷が湛水して残された人が救助される光景を度々見ることがある。

2019年には令和元年東日本台風(台風19号)により増水し、堤防の決壊こそ起きなかったものの、流域の広範囲の地域が狛江水害以来45年ぶりとなる規模で浸水の被害を受けた。要因として世田谷区玉川に堤防未整備の区間が約540mあった[40]ほか、想定を超える雨量による本流の水位上昇で支流からの排水ができなくなる「背水」(バックウォーター)が起きた可能性が指摘されている[41][42]


注釈

  1. ^ 1坪は6立方で、およそ10トンである。
  2. ^ 黒田長礼『六郷川口に於ける鷸・千鳥類の「渡り」』日本鳥学会1919年(大正8年)。本書は渡りを考察するものであるが、多摩川河口付近に訪れるシギ・チドリ類を観察・記録するとともに、東京湾内の潮田(現在の神奈川県横浜市鶴見区)から浦賀にかけて、および千葉県行徳養老川河口付近などシギ・チドリ類が多く訪れていた(干潟があった)地域とも比較しながら考察を加えている。

出典

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  2. ^ a b 市名の由来 | 多摩市役所”. www.city.tama.lg.jp. 2019年9月6日閲覧。
  3. ^ 『多摩川』1981.12. 第12号”. 東急財団. 2022年6月22日閲覧。
  4. ^ a b 『多摩川』1982.03. 第13号”. 東急財団. 2019年9月6日閲覧。
  5. ^ 福生市. “多摩川の由来を知って(平成31年2月1日号)”. 東京都福生市公式ホームページ. 2019年9月6日閲覧。
  6. ^ a b 『多摩川』1982.06. 第14号”. 東急財団. 2019年9月6日閲覧。
  7. ^ 『多摩川』1982.09. 第15号”. 東急財団. 2019年9月6日閲覧。
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  11. ^ 村山・山口貯水池(多摩湖・狭山湖)
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  13. ^ 『水辺を歩こう多摩川』p.172「多摩川の渡し跡」
  14. ^ 4月1日、リニューアルオープン”. 東急ゴルフパークたまがわ. 東急スポーツシステム (2015年4月1日). 2016年3月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月24日閲覧。
  15. ^ 水源・水質 安定した水源の確保 東京都水道局(2020年7月9日閲覧)
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  18. ^ 片岡義男、野田知佑、佐藤秀明『カヌーで来た男』文藝春秋〈文春文庫〉、168-171頁。 
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  20. ^ 三輪修三『多摩川:境界の風景』(有隣新書1988年)8-20ページ
  21. ^ 三輪、前掲書、102 - 106ページ
  22. ^ a b c d e f g h i NHK もういちど日本「江戸前のあゆ」2014年6月11日 放送
  23. ^ Setagaya100 2020, p. 40.
  24. ^ 「江戸前アユ復活へ地域協議会が発足 昭島など」『読売新聞』朝刊2018年3月14日(地域面)
  25. ^ a b c 鈴木2004, p172
  26. ^ 三輪、前掲書159ページ
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  28. ^ 馬場錬成『サケ多摩川に帰る』20頁
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  30. ^ 馬場錬成『サケ多摩川に帰る』17 - 20頁
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  33. ^ 小林1995, p.62
  34. ^ 小林1995, p.112
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  36. ^ 小林1995, pp.113-115
  37. ^ a b 小林1995, p.116
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  40. ^ 「景観大切」「家のぞかれる」…多摩川の堤防未整備区間氾濫”. 読売新聞 (2019年10月15日). 2019年10月19日閲覧。
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  42. ^ 「多摩川が氾濫 バックウォーター現象とは?」[リンク切れ]『東京新聞』
  43. ^ 国土交通省京浜工事事務所(現・京浜河川事務所)『水辺を歩こう多摩川』2002年
  44. ^ 津戸英守『多摩川の野鳥』講談社ISBN 4-06-201027-5
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  46. ^ 『水辺を歩こう多摩川』p.164、p.224-
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  58. ^ スズガモが水中からハマグリを捕まえてきた様子






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