多摩川と二ヶ領用水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:35 UTC 版)
江戸時代初期に整備された二ヶ領用水は、上河原・宿河原の堰で取水した豊富な水が当町西北部で合流し、津田山(七面山)沿いを流下して当町西南部で 4方面へと分けられており、当町は稲作の生命線である水の要衝の地であった。二ヶ領用水に潤された下流域では以降新田開発が進み、かつては上質な米が「稲毛米」と呼ばれ、江戸で好評を博したという。反面、水にまつわる争いも絶えることがなく、度々騒動が起きていたといわれる。特に二ヶ領用水の水を正確に分けるために設けられた分水樋については、かつては木の板を用いた簡素なものであったが、正確な分水が出来ないことから水をめぐる争いが絶えず、かつての分量樋(二ヶ領用水久地分量樋)に代わり、高度な技術を投入して久地円筒分水が造られるほどであった。 また、久地分量樋を洪水などの被害から護るため、その手前には久地大圦樋、および余剰の水を多摩川に流す水路が設けられていた。多摩川と二ヶ領用水に挟まれたこの一帯は、かつては度々洪水に見舞われたが、その洪水から下流域を護るためにと溝ノ口村・二子村など下流域の村々が横土手を盛りはじめ、それに久地村や上流の堰村などが反発、工事は 300m ほど進んだところで続行不能な事態になり、以降中断されたまま放置されていたという。 その土手の遺構が近年まで残っていたが、現在はこの付近の工場跡地に大規模マンション建設がされ、かつての横土手は舗装道路へと姿を変えており、すぐ側に設けられた川崎歴史ガイドのガイドパネルが往時の状況を伝えるのみである。 1597年(慶長2年)- 小泉次太夫、六郷用水及び二ケ領用水の開削事業を開始。 1609年(慶長14年)7月- 稲毛川崎二ヶ領用水の本流路開削工事完了。 1611年(慶長16年)3月- 稲毛川崎二ヶ領用水工事完了。灌漑面積1876町歩。 1616年(元和2年)- 稲毛川崎二ヶ領用水組合成立。 1628年(寛永5年)- 関東郡代伊奈忠治の手代筧助兵衛、多摩川に宿河原用水取水口を新設。 1710年(宝永7年)- 多摩川の川筋が変わった事により、久地村と対岸の宇奈根・大蔵・鎌田3ヵ村との間に地境論争が起こる。 1910年(明治43年)- 老朽化のため久地分量樋崩壊。久地円筒分水建設。 1919年(大正8年)- 内務省、多摩川河口から久地にいたる多摩川右岸改修工事開始。
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