多摩川グランド時代
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「川崎市多摩川丸子橋硬式野球場」の記事における「多摩川グランド時代」の解説
1961年(昭和36年)、当時の東映フライヤーズ球団が国有地を借り上げて二軍本拠地および練習場として開設。以来、1973年に日拓ホームフライヤーズ、翌1974年に日本ハムファイターズと経営母体および球団名の変遷を重ねながらも二軍本拠地としてイースタン・リーグ公式戦が行われた(日拓ホーム時代までの球場名は不明)。徒歩数分のところには球団の合宿所「勇翔寮」があり、若手選手の育成の場として長年に亘って使用されてきた。 当時、多摩川グラウンドと名乗る球場は読売ジャイアンツ(東京都大田区、現在の多摩川緑地広場硬式野球場)、大洋ホエールズ(川崎市中原区 その後等々力第二球場となったのち、下水道処理場「等々力環境センター」の整備に伴い閉鎖)と併せて3箇所あった。 しかし、後年は施設が老朽化したことに加え、観覧設備がなくトイレも仮設のものしかないなど観客や来訪者に対するサービスが充分ではないこと、さらに更衣設備がないため選手が屋外での着替えを余儀なくされることなど設備の不備が指摘されるようになった(ただその分、選手とファンとの距離が近く、係員や警備員も配備されていなかったためにサインや握手を求めるのは比較的容易で、「選手とファンが近いアットホームな球団」という日本ハム伝統のチームカラーが育まれていた)。また、外野後方に東急東横線の多摩川橋梁があり、イ・リーグ公式戦などの試合中に電車が通過する際には通過時の騒音やボールの視認性低下を理由に試合が一時中断されるなど(シートが昇降する仮設のバックスクリーンこそ設置されていたが、さほど用を成さなかった)、運営上大きな問題を抱えていた。 これらの問題から、1992年(平成4年)より相模原市の神奈川県立相模原球場(現:サーティーフォー相模原球場)を本拠地として使用するようになったため、同年以降は練習のみに使用されるようになった。1997年(平成9年)にはかねてから計画されていた育成施設「日本ハムファイターズタウン鎌ケ谷」が千葉県鎌ケ谷市に完成し、本拠地球場であるファイターズスタジアムと屋内練習場、合宿所(名称は同じく「勇翔寮」)を有する充実した施設群が整ったのに伴い、球団は同年春をもって多摩川グランドをはじめとする川崎市内の球団施設の使用を終了した。 なお、練習場としての使用終了後も球団が所有を続け、駒場学園高等学校硬式野球部の練習などに貸し出されていた。また、2001年(平成13年)5月26日と翌27日にはMLBのボストン・レッドソックスが当グランドで入団テストを開催している。 2004年(平成16年)、一軍本拠地を東京都から北海道へ移転し球団名を「北海道日本ハムファイターズ」へ改称したのに伴い、所有者が従来の「日本ハム球団株式会社」(1946年12月設立)から2003年8月設立の新しい球団運営会社である「株式会社北海道日本ハムファイターズ」へ移行した。 2011年(平成23年)3月31日、借地契約満了により日本ハム球団から国に土地の所有権が返還されたことに伴い閉鎖された。
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