蛮社の獄 発端

蛮社の獄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/13 15:51 UTC 版)

発端

モリソン号事件

蛮社の獄の発端の一つとなったモリソン号事件は、天保8年(1837年)に起こった。江戸時代には日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護されることがしばしば起こっていたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースであった。彼らは外国船に救助された後マカオに送られたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・W・キング英語版が、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図した。この際に使用された船がアメリカ船モリソン号である。

天保8年(1837年)6月2日(旧暦)にマカオを出港したモリソン号は6月28日に浦賀に接近したが、日本側は異国船打払令の適用により、沿岸より砲撃をかけた。モリソン号はやむをえず退去し、その後薩摩では一旦上陸して城代家老島津久風と交渉したが、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられて船に帰された後に空砲で威嚇射撃されたため、断念してマカオに帰港した。日本側がモリソン号を砲撃しても反撃されなかったのは、当船が平和的使命を表すために武装を撤去していたためである[2]。また打ち払いには成功したものの、この一件は日本の大砲の粗末さ・警備体制の脆弱さもあらわにした。

翌天保9年(1838年)6月、長崎オランダ商館がモリソン号渡来のいきさつについて報告した。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たことおよび通商を求めてきたことを知った(ただしモリソン号はイギリス船と誤って伝えられた)。老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけた。7-8月に提出された諸役人の答申は以下のようである。

  • 勘定奉行・勘定方「通商は論外だが、漂流民はオランダ船にのせて返還させる」
  • 大目付目付「漂流民はオランダ船にのせて返還させる。ただし通商と引き換えなら受け取る必要なし。モリソン号再来の場合は打ち払うべき」
  • 林大学頭(林述斎鳥居耀蔵の父)「漂流民はオランダ船にのせて返還させる。モリソン号のようにイギリス船が漂流民を送還してきた場合むやみに打ち払うべきではなく、そのような場合の取り扱いも検討しておく必要あり」

水野は勘定奉行・大目付・目付の答申を林大学頭に下して意見を求めたが戌9月の林の答申は前回と変わらず、水野はそれらの答申を評定所に下して評議させた。これに対する戌10月の評定所一座の答申は以下のとおり。

  • 評定所一座(寺社奉行町奉行・公事方勘定奉行)「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし」

水野は再度評定所・勘定所に諮問したがいずれも前回の答申と変わらず、評定所以外は全て穏便策であったため、12月になり水野は長崎奉行に、漂流民はオランダ船によって帰還させる方針を通達した。

『戊戌夢物語』と『慎機論』

幕閣でモリソン号に関する評議がおこなわれていたのと同時期、天保9年(1838年)10月15日に市中で尚歯会の例会が開かれた。席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎(靖兵隊隊長芳賀宜道の父)が、評定所において現在進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに示した。

前述のように、幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し漂流民はオランダ船による送還のみ認めるというものだったが、もっとも強硬であり却下された評定所の意見のみが尚歯会では紹介されたために、渡辺崋山高野長英松本斗機蔵をはじめとするその場の一同は幕府の意向は打ち払いにあり、またモリソン号の来航は過去のことではなくこれから来航すると誤解してしまった。

報せを聞いてから6日後に、長英は打ち払いに婉曲に反対する書『戊戌夢物語』を匿名で書きあげた。幕府の対外政策を批判する危険性を考慮し、前半では幕府の対外政策を肯定しつつ、後半では交易要求を拒絶した場合の報復の危険性を暗示するという論法で書かれている。これは写本で流布して反響を呼び、『夢物語』の内容に意見を唱える形で『夢々物語』・『夢物語評』などが現われ、幕府に危機意識を生じさせた。なお、松本も長英と同様の趣旨の「上書」を幕府に提出している。

一方、崋山も『慎機論』を書いた。自らの意見を幕閣に届けることを常日頃から望んでいた崋山は、友人の儒学者・海野予介が老中・太田資始の侍講であったことから海野に仲介を頼んでいた。しかし当の『慎機論』は海防を批判する一方で海防の不備を憂えるなど論旨が一貫せず、モリソン号についての意見が明示されず結論に至らぬまま、幕府高官に対する激越な批判で終わるという不可解な文章になってしまった。内心では開国を期待しながら海防論者を装っていた崋山は、田原藩の年寄という立場上、長英のように匿名で発表することはできず、幕府の対外政策を批判できなかったためである。自らはばかった崋山は提出を取りやめ草稿のまま放置していたが、この反故にしていた原稿が約半年後の蛮社の獄における家宅捜索で奉行所にあげられ、断罪の根拠にされることになるのである。

なお、『夢物語』・『慎機論』いずれもモリソンを船名ではなく人名としているが、松本の「上書」では事実通りの船名となっており、長英と崋山はあえてモリソンを人名としたものと思われる。モリソンを恐るべき海軍提督であるかのように偽って幕府に恐れさせ、交易要求を受け入れさせようとしたものとみられる。

同じころ、これは目付・鳥居耀蔵江川英龍江戸湾巡視の命が下った時期でもあるが、崋山は友人の儒学者・安積艮斎宅に招かれ世界地図を広げ海外知識を説いている。居並ぶ客皆感嘆の声を漏らさない者はなかったが、唯一、林式部林述斎の三男・鳥居耀蔵の弟)だけは冷笑するばかりであったという(赤井東海『奪紅秘事』)。

江戸湾巡視

モリソン号に関する審議や『戊戌夢物語』の流布などを経た10か月後、天保9年(1838年)12月に水野忠邦鳥居耀蔵を正使、江川英龍を副使として江戸湾巡視の命を下した。両者は拝命し、打ち合わせを重ねたが鳥居が江川に無断で巡見予定地域を広げるなど当初からいざこざが絶えなかった。

江川は出発にそなえ斎藤弥九郎を通じて渡辺崋山に測量技術者の推薦を依頼し、それに応えて崋山は高野長英の門人である下級幕臣・内田弥太郎奥村喜三郎の名を挙げ、また本岐道平を加わらせた。一方鳥居の配下には、後に蛮社の獄で手先として活動する小笠原貢蔵がいた。江川は内田の参加が差し障りがないかどうか鳥居と勘定所にただしたところ、問題なしとの返事が来た。しかし出発前日の天保10年(1839年)1月8日になり、勘定奉行から内田随行不許可の内意が示された。巡見使一行は1月9日に出発したが、江川は内田の参加がなければ測量はできないと判断し、病と称して見分を延期し、勘定所に内田随行の願書を再三提出した。その結果ようやく21日になり随行が許可されたが、これは鳥居と江川という高官同士の対立を感知していた勘定所が政争に巻き込まれることを恐れたためと言われている。こうして内田と奥村は2月3日になって一行に合流したが、鳥居は今度は奥村の寺侍という身分を問題にし、強引に帰府させた。

鳥居・江川の一行が測量を終えて帰府したのは3月中旬であるが、このころには鳥居は、崋山が江川と親しく、人材と器具を提供しているばかりか数々の助言を与えていることをつかんでいた。佐藤一斎の門人で林家に連なる身でありながら蘭学に傾倒した上、友人の儒学者らを蘭学に多数引き入れ、また陪臣の身分で幕府の政策に介入し外国知識を入説しようとする崋山は、林家と幕臣という二重の権威を誇り、身分制度を絶対正義と見なし西洋の文物を嫌悪する鳥居と林一門にとって、決して許容できない存在として憎悪の対象になった。さらに、折からの社会不安と外警多端によって幕藩体制がゆらぎを見せ始めていることに対する鳥居なりの危機意識、江川に代表される開明派幕臣を排除したい出世欲などが加わり、崋山を槍玉に挙げ連累として開明派を陥れることが、それらの解決策であると彼は考えるようになった。何よりも水野忠邦を首班とする幕閣全体に、『戊戌夢物語』の流布に見られる処士横議の風潮に対する嫌悪感があった。

以上が蛮社の獄発端のあらましで、フィクションにおいてしばしば採用される、測量図製作において鳥居が江川に敗れたのを逆恨みしたためというのは俗説であり、高野長英の獄中手記『蛮社遭厄小記』からとられたものである。長英は鳥居と江川・崋山の根深い対立や、後述する崋山の論文『外国事情書』について知らなかったのである。

以上の通説に対して田中弘之は、前記のとおり林家は蘭学に対しても非常に寛容であったし、鳥居耀蔵も林家よりも幕臣鳥居家の人間としての意識のほうが強かったと指摘している。江戸湾巡視の際に鳥居と江川の間に対立があったのは確かだが、もともと鳥居と江川は以前から昵懇の間柄であり、両者の親交は江戸湾巡視中や蛮社の獄の後も、鳥居が失脚する弘化元年(1844年)まで続いている。江戸湾巡視における両者の対立が決定的なものだったなら、そのようなことはあり得ない。そもそも鳥居と江川は、西洋に対する厳しい警戒心・鎖国厳守・幕府に対する並々ならぬ忠誠心という点では同一であり、江川が海防強化に積極的なのに対して鳥居は消極的という点で異なっているにすぎず、逆に海防論者を装いつつ内心では鎖国の撤廃を望む崋山と江川は同床異夢の関係であった。江川は崋山を評判通りの海防論者と思い接近したが、崋山はそれを利用して逆に江川を啓蒙しようとしていたのである。また、鳥居は蛮社の獄の1年も前から花井虎一を使って崋山の内偵を進めており、蛮社の獄の原因を江戸湾巡視に求めるのは誤りであるとしている[3]

事情書三部作

3月中旬、江戸湾巡視を終えて江戸に帰ってきた江川英龍は、復命書を作成するにあたって渡辺崋山の意見書も幕府に提出する予定であった。10年近くにわたり蘭学の知識を吸収し国防に関して意見を練り上げてきた崋山にとっても、これは幕府中枢に自分の意見を届けることのできるまたとない機会であった。日をおかずに崋山は『初稿西洋事情書』を書きあげたが、これは江川に送ることを断念した。この『初稿西洋事情書』が、2ヵ月後の蛮社の獄で幕政批判の証拠として挙げられ、『慎機論』とともに断罪の根拠とされることになる。

崋山は改めて『再稿西洋事情書』と『諸国建地草図』を脱稿し、3月22日に送付した。だが江川は後者は採用したが、前者は幕政批判の文言が激しいために却下し、書き直しを指示した。江川の希望に従い、崋山は4月23日になり改稿した『外国事情書』を先方に送付した。『再稿西洋事情書』が幕府の鎖国政策と怠惰性を激しく攻撃し、もっぱら幕政批判に終始しているのに比べ『外国事情書』は分量だけでも『再稿西洋事情書』の3倍近くに達し、海外知識と海防の具体案で占められている。海外知識に関しては最新の資料が活用され、崋山の蘭学研究の集大成であるとともに、論文としても当時の最高水準に達したものであった。崋山はこの論文を執筆していることを誰にも明かさず、高野長英もその例外ではなかった。蛮社の獄における通説の主要な情報源である長英の『蛮社遭厄小記』において、この『外国事情書』をめぐる動きについて一切触れられていないのはそのためである。

一方、書き直しを繰り返して完成が遅れたために、崋山が江川に『外国事情書』を送付した4月23日には江川はすでに幕府に復命書を提出してしまっていた。江川が幕府に復命書を提出した4月19日は、鳥居耀蔵が配下の小笠原貢蔵らに崋山について内偵を命じた日でもあった。陪臣の崋山が、幕府の業務たる測量行に、それも蘭学をもって介入したことだけでも不審と不快を覚えていた鳥居の感情は、江川が報告書に崋山作成の『諸国建地草図』を付したことでさらに悪化していた。蛮社の獄の狙いは、大局的には開明派の弾圧であり、直接的には江川を通じての『外国事情書』上申を阻むことにあった。鳥居の視点から見れば、これは西洋による文化侵略から日本を守る崇高な行動であった。

以上の通説に対して田中弘之は、江川が崋山に求めたものは、西洋の危険性を明らかにし日本が早急に海防を強化しなければならない理由を記した西洋事情の概説書であり、一方で崋山は江川からの依頼を好機として江川に鎖国・海防政策の誤りを気づかせようとしたものであるとしている。崋山の事情書三部作には、イギリス・ロシアなど主要国の大まかな地誌・歴史・社会・軍備等が記されており、特に『初稿西洋事情書』ではそうした概説的記述の他に西洋に対する肯定的紹介、鎖国・海防への婉曲的な批判が巧みに挿入されているが、これは鎖国批判を含む内容が過激すぎたためか江川に送ることを断念し、次に鎖国の撤廃をほのめかした部分などを除いた『再稿西洋事情書』を書いて『諸国建地草図』とともにこれを送った。だがこれも江川の意に添わず書きなおしを求められ、崋山が再度書き直して送ったのが『外国事情書』である。だがこの『外国事情書』でも西洋への称賛は控えめなものの海防の強化は婉曲に批判しており、これは依頼した江川の意図とは反するため、結局江川は幕府への復命書を書くにあたって『再稿西洋事情書』『外国事情書』を参考にすることはなかった。さすがに江川もこの時点で崋山が海防論者でないことを悟ったのだと思われる。『外国事情書』の上申を阻むのが蛮社の獄の目的なら、正使の鳥居が部下である副使の江川が提出する報告書や『外国事情書』を却下すれば済むことであり、また開明派・守旧派などの存在も不分明で、そのような説は成立しがたいとしている[3]

無人島渡航計画

無人島である現在の小笠原諸島の存在が日本に知られるようになったのは寛文10年(1670年)のことで、延宝3年(1675年)に幕府は探検船を派遣して調査し領有を宣言した。当時は長崎に来航する唐船を模して建造されたジャンク様式の航洋船が長崎にたまたま1隻あり、朱印船貿易時代の航海術にくわしい船頭もいたからだが、18世紀にはそのような船や人も失われており、19世紀に入り幕府の外国への警戒が厳しくなって異国船打払令が発令されると、幕府の無人島に対する姿勢も委縮し硬化していった。無人島の正確な位置さえ誰もわからなくなっており、関心も失われて半ば放置されていた。

そのような中、文政10年(1827年)にイギリスの探検船ブロッサム号英語版父島に来航しイギリス領宣言を行ったが、イギリス政府の正式な承認は得られなかった。天保元年(1830年)には欧米人・ハワイ人など25名が父島に入植している。彼らは島に寄港する捕鯨船に水や食料を売って生活していた。

通説によると、モリソン号事件に象徴される外交問題に頭を悩ませていた幕府にとって、海防と沿岸調査は急務の事案であった。すでに天保9年(1838年)イギリス人の小笠原諸島入植の風説に対応し、幕府は代官・羽倉簡堂を同地の調査に派遣している。また、後に蛮社の獄で連累されることになる下級幕臣・本岐道平が羽倉に同行している。本岐は蘭学に通じた技術者であった。羽倉の友人であった渡辺崋山はこの調査に同行することを藩に願い出て、却下されているとする。

これに対して田中弘之は、羽倉の伊豆諸島巡見は彼の支配地である大島から八丈島までの巡見であり、無人島渡航を命じられた事実はうかがえず、羽倉の無人島渡航は単なる噂に過ぎなかった。当時の和船では八丈島への航海でさえ危険が伴ったのである。崋山は噂を事実と信じて同行を希望したが、彼は西洋人が小笠原島に定住していることを知っていたようで、西洋に肯定的認識を持っていた崋山はそれゆえに最も身近な西洋とも言える無人島への興味と憧れから無人島渡航への同行を希望したものとみられる。そもそも羽倉と崋山の接点は不明で、もし2人が親密な間柄であったなら、無人島渡航の計画がないことを崋山は知らされていただろうとしている[3]

また、18世紀末以来、松浦静山甲子夜話』や本多利明『西域物語』などの書物に桃源郷のような無人島の話が載っており、佐藤信淵混同秘策』では空想的な無人島開発論が書かれており、無人島の噂は流布していたものとみられる。一方で、異国船打払令を発令していた幕府は、日本人と西洋人の接触を厳しく禁じるとともに、西洋への警戒心の緩んだ日本人への警戒を強めていた。

天保の半ばころ、常陸国無量寿寺の住職・順宣とその子息・順道は林子平の『三国通覧図説』や漂流者の日記などを読んで影響を受けたことから、無人島に関心を持ち、現地への渡航という夢を抱くようになった。旅籠山口屋の後見人・金次郎らもこの計画に関心を持っており、他に蒔絵師・山崎秀三郎、御隠居・本岐道平、陪臣医師・阿部友進、御普請役の兄・大塚同庵、元旗本家家臣・斉藤次郎兵衛、後に仲間を裏切って鳥居のスパイとなった下級幕臣・花井虎一らもこの計画に参加していた。この無人島渡航計画はもちろん幕府の許可を得たうえで実行することになっていたが、資金をはじめ船や食料の調達など具体的なことは何一つ決まっておらず、無人島に関心のある人々が地図や記録類を集めては夢や期待を語りあっていただけであった。


  1. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508 2020年12月2日閲覧。 
  2. ^ 鹿児島県史』
  3. ^ a b c d e f 田中『「蛮社の獄」のすべて』
  4. ^ 山脇悌二郎「天保改革と長崎会所」(『日本歴史』248号、1969年1月)






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