淀川 淀川開発史

淀川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/06 07:31 UTC 版)

淀川開発史

為政者の治水・利水

淀川流域は古来、日本の政治・文化・経済の中心地として極めて重要な位置を占めていた。それ故、仁徳天皇時代茨田堤の建設に始まり河川整備が繰り返されたが、洪水も度々起きた。

奈良時代から戦国時代にかけて

奈良時代の僧侶行基は、琵琶湖周辺の浸水被害を防ぐためにはより多くの湖水を唯一の流出河川である瀬田川に流す必要があると考え、瀬田川沿いにある小さな山を掘削することを試みた。この山が川に大きく張り出しているために瀬田川の川幅が急に狭くなる箇所があり、上流が豪雨に見舞われると水を堰き止めて上流に洪水をもたらすことが頻繁に起こっていたためである。結局、行基は山を掘削することで下流が氾濫することを恐れて計画を断念。さらに山を削ることを諫めるために大日如来を祀り、「山に手をつけると祟りが起こる」との言い伝えを残した。2017年現在「大日山」と呼ばれているこの山は、1901年に「明治29年琵琶湖洪水水害」を契機とする淀川水系治水工事で切り取られ、瀬田川の流れは増大した[6][7][8]

平安時代末期の白河法皇は、意のままにならぬ「天下三不如意」として比叡山延暦寺僧兵双六博打賽の目と並んで、淀川上流である鴨川の治水を挙げた。

戦国時代に全国を統一した豊臣秀吉が晩年、伏見に居を移すに当たり、宇治川(巨椋池)の改修を行った。その主なものは、槇島堤を築くことで京都盆地南部に流れ込む宇治川の流れを巨椋池に直接流れ込む形から、現在のような伏見への流れに変えたことである。このことにより宇治川は桃山丘陵に築かれた伏見城の外の役目を担うことになるとともに、水位が上がったことにより伏見城下にを開くことを可能にした。また淀堤を伏見・淀間の宇治川右岸に築き、伏見と淀を繋ぐ街道とするとともに流れを安定させた(太閤堤)。下流部左岸にはやはり文禄堤が築かれ、淀堤と結ぶことにより京都と大坂を結ぶ街道となった。これにより、伏見は交通の要衝として栄えることになった。

江戸時代

京都名所之内 淀川
長柄三頭(浪花百景)
1800年代。歌川國員/画

江戸時代徳川家康の命により方広寺大仏殿(京の大仏)造営のための資材運搬を鴨川を用いて行った角倉了以・与一親子は、恒久的な運河として高瀬川を開削。京都への水運整備を行い、物流を発展させた。大坂においては道頓堀が開削され、大坂夏の陣で荒廃した市中の再建が進められる中で、水運と橋梁の整備も進んだ。大坂は江戸の「八百八町」に対し「八百八橋」と謳われた。さらに農業技術の進歩と江戸幕府による新田開発奨励の中で、宇治にある巨椋池干拓も始まった。経済が活発になると、薪炭の採取や新田開発が進み流域の伐採が進んだ。森林の喪失は、山間部からの土砂流入を招き、氾濫などの原因となる河床の上昇が進んだ。このため幕府は1660年山城国大和国伊賀国で樹木の根株の採掘を禁ずる令を出した。加えて1666年には、全国版というべき諸国山川掟を発しているが、それでも土砂流入は収まらなかった。

江戸時代の瀬田川の浚渫は、まず1670年に琵琶湖沿岸の村々の嘆願を受けて、国益として行われている。1683年には稲葉正休河村瑞賢による現地視察が行われ、稲葉が失脚した[要出典]翌1684年に河村による河川改修工事が行われた[9]。さらに、1699年には「河村瑞賢の大普請」と呼ばれる大工事が行われている[10]

1733年にも瀬田川流域の住民が浚渫を願い出ているが、京都・大阪の住民が大洪水を被ると反発し、幕府も下流地域の治水・舟運への影響やまた浅瀬が軍事的に重要な徒河地であることを考慮し、自普請であってもこれを許可しなかった。根強い陳情にもかかわらず幕府が反応しなかったため、住民はしじみ取りと称して川底を掘るなど幕府を翻弄し、結果住民の不満を抑えるため、このしじみ取りは川浚えと同じ効果があるとして元禄年間から明治元年まで免税を受けることになった。また、1737年には小規模な浚渫が認められたが、一時的に疎通能力を改善する程度の効果しかなかった[10]

その後、高島郡深溝村の庄屋藤本太郎兵衛が177村の意見を取り纏め、郡役所に陳情し、また下流の宇治川・淀川沿岸の村々とも話し合いを重ね、その結果1785年に自普請での浚渫の許可を得ることができた。しかしこの浚渫は1737年のものと同様小規模なものであり、しばらく経つと再び土砂が堆積することとなった。そのため藤本太郎兵衛は四代に渡り努力を重ね、下流の約300村の同意を取り付けるなどし、結果「河村瑞賢の大普請」以来となる大規模な浚渫工事が、大津代官所の管理の下1831年に開始された。この工事は琵琶湖沿岸300村による自普請であったため、農民は重い経済負担を課せられた[11]。なおこの間1807年5月には、大雨により琵琶湖の水が溢れ、京都・大坂に洪水をもたらしたと、大坂の画家・暁鐘成は『雲錦随筆』に記している[12]

近代の淀川改修事業

明治時代、東京奠都が行われた後、寂れてしまった京都の産業復興と上水道灌漑水運水車の動力確保を図るべく、京都府知事北垣国道は1885年(明治18年)、工部大学校(現:東京大学工学部)卒の若い技師・田辺朔郎と共に琵琶湖からの取水計画を推進。日本で初めての竪坑を用いたトンネル開削などの難工事を経て1890年(明治23年)に琵琶湖疏水を完成させ、日本初の水力発電所である蹴上発電所の運用を開始。京都に日本初の路面電車開業を齎した。1908年(明治41年)には琵琶湖第2疏水の建設が始まり1912年(明治45年)完成した。水力発電所はこの後淀川本川〔宇治川〕に志津川ダムが建設された。

治水事業に関しては、旧内務省により招聘されたG.A.エッセルヨハニス・デ・レーケ(後に内務省勅任官技術顧問)により砂防工事を始めとする事業が着手された。特に砂防事業は日本における近代砂防工事の原点ともなっている。現在でも滋賀県を中心に砂防堰堤の遺構が残されている。その後淀川は内務省による直轄改修河川に指定され、以後数度にわたる大規模な河川改修が実施された。

1890年(明治23年)には、同年に完成した瀬田川鉄橋の橋脚が水流を阻害していると考えた滋賀県内の有志により琵琶湖水利委員同盟が結成され、橋脚撤去の請願が退けられた後、瀬田川浚渫の請願を行うようになる[13]。これに対し、1885年(明治18年)の淀川洪水で大きな被害を受けており、工事によって洪水の危険性がより高まると考えた下流摂津河内11郡の有志は「淀川改修期成同盟」を組織して浚渫工事に猛反発した[14]。1891年(明治24年)から翌年にかけ、滋賀県の大越亨知事が内務大臣に瀬田川浚渫を数度にわたり陳情、1893年(明治26年)には部分的な浚渫が実施された[注釈 4][13]

1885年の淀川洪水の後には、大阪府による度重なる淀川改修要請も行われている。これらを受けての1889年(明治22年)から1897年(明治30年)の淀川改良工事では、瀬田川洗堰(南郷洗堰)の建設による琵琶湖の水位調節・中流部では伏見-淀間の宇治川河道付替、桂川木津川の河道を付け替えて合流地点を淀付近から下流よりの現在地への移設、新淀川開鑿工事が大規模な事業として名高い。瀬田川洗堰は1904年(明治37年)、瀬田川の流下能力増大による琵琶湖畔および瀬田川下流の洪水調節を目的に建設された。一方新淀川開鑿であるが、従来の淀川河口部は大川・中津川・神崎川の3河川に分流して大阪湾に注いでいた。中津川流路を利用して1つの放水路にまとめ、毛馬洗堰を建設して大川を堰から分流、神崎川は一津屋樋門より分流させて現在の形とした[15]。また、舟運が発達している事も考慮し毛馬・伝法閘門を建設して舟運を円滑化させた。この新淀川開削工事は1910年(明治43年)に完成。多数の住民が移転を余儀無くされたが古来より続けられた淀川河口部の治水事業がこれにて完結した。この修築工事を指揮した内務省技官・沖野忠雄は後にその手腕を買われて石狩川治水事務所長となり、石狩川本川・支川の捷水路事業を展開、蛇行した石狩川を直線化しているがそのノウハウは淀川で培われている。

淀川改良に伴い中津川が廃川となったため、1897年(明治30年)大道村ほか13カ村により普通水利組合が設置され、川右岸に当たる大道村大字北大道字三千の地(現:東淀川区南江口3丁目)に樋が設けられ農業用水が取水された(三千樋)[16][17]

三千樋

1917年(大正6年)9月末から10月にかけての「大正大水害」を受け1918-1932年にかけて背割り堤の築造、宇治川右岸観月橋-三栖に築堤建設と伏見港への三栖閘門の建設された。 しかし1930年(昭和5年)7月の台風災害[18]、1934年(昭和9年)9月の室戸台風、1935年(昭和10年)6月と8月の京都大水害と立て続けに水害に見舞われ再度の堤防かさ上げが計画され、戦争による中断もあったが1954年(昭和29年)に完工した。

また中流部では巨椋池の干拓が主要な事業となった。前記の伏見・淀間の宇治川河道付替、葭島堤等新堤の築造、大池排水路・樋門新築などによる河川改良工事が行われ、宇治川と巨椋池が分離された。流水の途絶によって巨椋池の水質が悪化。漁獲高の減少や伝染病の流行などが起こったこともあり、1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)に行われた国営干拓事業によって完全に農地化され、太古から京都盆地に存在した巨椋池は姿を消した。さらに流域の急速な人口増加・産業地域拡充に対応すべく1935年(昭和10年)より内務省による河水統制事業として『淀川第一期河水統制事業』が手掛けられた。この事業では従来の治水目的として瀬田川浚渫・大戸川付け替え工事・瀬田川狭窄部である関の津地点の岩盤掘削の他、利水目的として琵琶湖疏水取水口に揚水機場と閘門を建設して疏水の流入量を強化し、水力発電上水道供給を確保した。だが、戦時下でもあるため他の河水統制事業のようにダムによる河川開発は行われず、既存の施設を利用した緩やかな事業であった。

淀川水系改修基本計画

終戦後各地で台風集中豪雨による記録的災害が起こったが、淀川水系でも例外ではなかった。特に1953年(昭和28年)の台風13号による水害は淀川に過去最大の洪水を惹き起こし、琵琶湖沿岸や宇治川流域を中心に甚大な被害を生じた。敗戦後の経済状況をさらに悪化させるこれら水害の根本的な対策が不可欠と見た経済安定本部は、諮問機関である河川審議会の議を経て1949年(昭和24年)、利根川北上川筑後川など全国主要10水系を対象に『河川改訂改修計画』を策定した。この10水系の中に淀川水系は当然入っており、1954年(昭和29年)に『淀川第一期河水統制事業』を大幅に改定した『淀川水系改修基本計画』がまとめられた。

建設省近畿地方建設局(現:国土交通省近畿地方整備局)は琵琶湖を含めた淀川流域の河川総合開発事業を、台風13号水害を基準にした洪水調節計画とした。この中で淀川水系においても初めて多目的ダムによる洪水調節が計画された。淀川本川(宇治川)では瀬田川洗堰の改修に加え志津川ダム下流に天ヶ瀬ダムの建設を計画。木津川流域では支流の名張川に月ヶ瀬ダム(後の高山ダム)を建設し淀川・木津川の洪水調節を目論んだ。天ヶ瀬ダムは上流の滋賀県が琵琶湖開発との絡みで県議会の建設反対決議採択などを行い反対し、下流の京都府などとの事業調整が難航したが1964年(昭和39年)に完成した。後に近くに建設された喜撰山ダム関西電力株式会社)と揚水発電も行い、近畿有数の水力発電所・喜撰山発電所が誕生している。なお、天ヶ瀬ダム建設に伴い志津川ダムは水没した。

天ヶ瀬ダム完成を以て『淀川水系改修基本計画』に基づく河川総合開発は一応の完成を見たが、流域の急激な宅地化は従来洪水常襲地帯であった場所にも宅地化が進出し、治水安全度の低下を招いた。このため新たな治水対策が要望され1971年(昭和46年)に建設省は『淀川水系工事実施基本計画』を策定。この中でスーパー堤防の導入や長柄可動堰の改築計画、木津川流域・桂川流域・神崎川流域における多目的ダムの新規計画を柱とした治水対策をまとめた。こうして計画されたのが淀川大堰(淀川)・一庫ダム(一庫大路次川)・日吉ダム(桂川)・比奈知ダム(名張川)などである。

一方、地方自治体においても独自に補助多目的ダムの建設が実施され、従来灌漑専用ダムの建設を行っていた滋賀県では余呉湖の洪水調節を図る余呉湖ダム(余呉川)の建設を皮切りに日野川野洲川石田川等で多目的ダムを建設。大阪府は1967年(昭和42年)の北摂豪雨を期に神崎川流域の総合開発を計画、安威川ダム安威川)・箕面川ダム(箕面川)の建設を計画・実施した。

灌漑と水資源開発

敗戦後の食糧危機を早急に解消するために農林省(現:農林水産省)は1947年(昭和22年)から『国営農業水利事業』を策定、全国4水系においてダム・頭首工用水路の総合的運用による水供給促進によって、新規農地開墾を行おうとした。この4水系の中に野洲川が加えられた。近江盆地は古くから穀倉地帯として知られていたが、天井川が流域の多くを占めており水争いの絶えない地域でもあった。既に1939年(昭和14年)より滋賀県の手で『野洲川農業水利事業』に基づき野洲川ダムの計画が進められていたが、戦後事業は国直轄事業となり『国営野洲川農業水利事業』として野洲川ダムが建設された。その後愛知川永源寺ダム等が灌漑専用として建設され、近江盆地の灌漑事業は飛躍的に改善した。

一方高度経済成長に伴い大阪市京都市等の関西圏は急激な人口の増加に加え、阪神工業地帯の膨張もあって水需要の必要性も叫ばれた。これに対し政府は1962年(昭和37年)に水資源開発促進法・水資源開発公団法を制定。水資源開発公団(現:独立行政法人水資源機構)による水資源総合開発計画を策定した。淀川水系は利根川水系と共に法制定の同年、水資源開発水系に指定され、『淀川水系水資源開発基本計画』に則り琵琶湖を含めた淀川水系全般の水資源開発に乗り出した。

これに基づき建設省より高山ダム(名張川)の事業承継を受けたのをはじめ、『木津川上流総合開発事業』として青蓮寺ダム(青蓮寺川)・室生ダム(宇陀川。計画当時は宇陀川ダム)・布目ダム(布目川)・比奈知ダム(名張川)の「木津川上流ダム群」を木津川流域に建設。日吉ダム(桂川)を桂川流域に、一庫ダム(一庫大路次川)を猪名川流域に建設し、長柄可動堰(後に淀川大堰として改築)を大阪市に建設した。これによって関西地方の水需要は大幅に好転。現在は丹生ダム高時川)・川上ダム(前深瀬川)が建設中である。

河川開発の見直し

淀川水系流域委員会の提言

1990年代以降、公共事業見直しの機運が高まり利根川水系を始め多くの河川でダム建設の休止・中止が相次いだ。淀川水系においては、国土交通省近畿地方整備局の諮問機関である「淀川水系流域委員会」がダムをはじめとする治水・利水事業の可否について検討を行った。この間、和束ダム(和束川)を中心とした宇治山城土地改良事業は中止。鴨川に建設予定だった京都府営の鴨川ダムも反対運動が強く中止となった。これとは別に、関西電力が国内最大級の揚水式水力発電所として建設が予定されていた金居原発電所・下部ダム(巣亦川)が、電力需要の伸び悩みから建設中止となっている。

2005年(平成17年)淀川水系流域委員会は提言を纏め、ダム事業については計画中のダムは全て中止するのが妥当という見解を答申した。これを受け国土交通省は余野川ダム(余野川)・大戸川ダム大戸川)の建設中止、川上ダム(前深瀬川)と丹生ダム(高時川)の規模縮小を発表。大阪府も安威川ダム安威川)の規模縮小を打ち出した。これに対し滋賀県等の流域自治体が「流域の安全を軽視するもの」として猛反発し、流域住民も賛否分かれた。このため最終結論は宙に浮いた状態となっている。これとは別に、農林水産省が愛知川に計画している永源寺第二ダム(愛知川)が、「ダムのボーリング調査未実施を承知しながら建設を進めるのは不当」として大阪高等裁判所より「ダム建設違法」の判決を下されるなど、淀川水系の開発は大きく揺らいでいる。

滋賀県のダム凍結宣言

こうした淀川水系の河川開発が大きく揺らぐ中、2006年(平成18年)の滋賀県知事選挙において当時現職だった国松善次を破り当選した嘉田由紀子知事は、就任直後から新幹線新駅・産廃処分場と並んでダム計画を、『もったいない』のスローガンに基づき不要な公共事業として全てを凍結させると発表した。長野県に次ぐ自治体単位での脱ダム施策である。

対象となったのは北川第一ダム(北川)・北川第二ダム(麻生川)・芹谷ダム(芹川)の県営ダムと国直轄事業である大戸川ダム・丹生ダム・永源寺第二ダムの計6事業である。長野県の脱ダム宣言と大きく異なるのは、県営ダムのみならず国土交通省・農林水産省の直轄ダム事業も中止対象に挙げている事で、就任当初から財政的問題・環境問題の両面よりダム事業は中止すべきとの持論を展開。ダムの代替案として堤防建設や森林整備を中心とした自然に優しい治水事業の整備を図りることで、ダム依存からの脱却を図ろうとした。

これに対し下流受益地である京都府京都市は事業費増大の対策に頭を悩ませていたこともあり、知事のダム凍結宣言を歓迎・支持する態度を表明。一方で上流受益地である大津市彦根市多賀町などは「堤防建設は却って莫大な支出をもたらす」としてダム建設の促進を要望した。水没予定住民も早急な建設促進を訴え、知事に反発した。知事は当初は凍結の態度を崩さなかったが、平成18年7月豪雨と直後の長野県知事選挙(田中康夫が落選)の影響からか、態度をやや軟化。「他に有効な方法が無い場合はダム建設もありえる」と地元との対話を重視する姿勢へ転換した。ただし知事は治水政策について「治水の瑕疵(かし)により1人でも死者が出た場合は知事を辞任する」とも話しており、退路を断って滋賀県の治水対策に取り組もうとしている。

2006年12月には凍結を宣言していた6ダムのうち、芹川支流水谷川に建設が計画されている「芹谷ダム」について、ダム以外の治水整備についての比較検討を行った結果コストパフォーマンス的にダム案の方が勝るという結論に達し、知事は芹谷ダム計画については前向きな検討を開始した。さらに2007年(平成19年)に入ると北川第一ダムについても事業の推進を表明、何れも既存の河川整備と比較しコストパフォーマンスに優れるという理由で事業再開を決めている。この他大戸川ダムについても事業容認の姿勢を見せている。田中康夫と異なり地元との意見調整や代替案との比較を進めながら、財政的観点とのバランスで必ずしも「脱ダム」に固執しない柔軟な姿勢でダム依存型の治水脱却を進めているが、支持層のうち自然保護団体は田中のような急進的なダム撤去・中止を是としていたことから嘉田知事の方針を「公約違反」として反発する向きもある。

河川管理者である国土交通省はこうした一連の動きを静観していた。2007年に嘉田知事は「ダム凍結宣言」を撤回し、大戸川・丹生の両ダムについて穴あきダムとしての建設を容認、国土交通省に建設再開を促したことから事態は動き出した。2007年8月28日、国交省近畿地方整備局が「淀川水系河川整備計画原案」を策定し、凍結ダムの建設再開方針を打ち出した。これを受けて大戸川ダムは治水ダムとして川上ダムや天ヶ瀬ダム再開発とともに建設が再開された。ただし余野川ダムは2008年(平成20年)に中止が決定、丹生ダムについては貯水するか穴あきかで県と当時の余呉町(現:長浜市)の対立が激化した。また「流域委員会」のあり方を巡り委員の選定などで国土交通省側の強引な介入があったと指摘・批判する声も大きい。

国土交通省は「淀川流域で過去最悪の大規模な洪水が発生し、淀川が大阪市内で破堤した場合には大阪市中心部が水没する」というシミュレーションを纏めている。全国的に毎年のように記録的な集中豪雨が起こっている現状において、淀川の治水は流域住民の安全と、自然保護や財政負担軽減などによる板挟み中で、難しい舵取りを迫られている。

観光目的での舟運復活の動き

八軒家浜船着場
枚方船着場

近代以降、京阪間を結ぶ交通・物流の中心は道路鉄道東海道本線阪急京都本線京阪本線)へ移り、淀川舟運は衰退した。近年、体験型観光の一環として、船上から川面や陸上の景色を楽しめる場として、河川舟運を見直す動きが出ている。京阪ホールディングスは2017年9月、大阪・天満橋の八軒家浜船着場と淀川河川公園枚方市)の枚方船着場を結ぶ定期観光船の運航を開始すると発表した。淀川での定期船は第二次世界大戦後初で、京阪間航路の開設も検討するとしている[19]


注釈

  1. ^ 観月橋の南のたもとに淀川維持區域標の石柱が、大津市晴嵐1丁目の琵琶湖岸に琵琶湖と瀬田川(淀川)とを区別する河川管理境界標が建てられている。
  2. ^ 古代には淀川・大和川ともに河内湖(草香江、歴史をさらにさかのぼると河内湾)に流入していた。
  3. ^ ただし地名としての瀬田は、明治時代になって瀬田村が成立した際に初めて現れた。一般的には瀬田は瀬戸が転化したものであるとされ(世田谷区の瀬田も同様)、両側を山に挟まれていることから地形由来で瀬田の名前が付いたと推測される。
  4. ^ 大越のこの功績を讃え、1905年(明治38年)、石山寺境内に記念碑が建立されている。
  5. ^ なお、水質は「(きれい)貧腐水性・β-中腐水性・α-中腐水性・強腐水性(汚い)」となる。
  6. ^ 琵琶湖疏水の行先は複数あるが、ここでは旧高瀬川に流入するものを指して言っている。
  7. ^ 山名川・琵琶湖疏水・新高瀬川が合流
  8. ^ 桂川・木津川合流
  9. ^ 芥川合流
  10. ^ 山崎太郎とも呼ばれ、瀬田の唐橋(勢多次郎)、宇治橋(宇治三郎)とともに日本三古橋の一つに数えられる。

出典

  1. ^ 高時川のようす 淀川源流をたずねて|長浜市の自然の様子|わたしたちの市の様子|わたしたちの長浜”. 長浜市教育センター. 2020年3月24日閲覧。
  2. ^ 淀川 名前も流転(とことんサーチ) - 日本経済新聞”. www.nikkei.com. 2023年3月21日閲覧。
  3. ^ 小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書)PHP研究所、2001年 p.183 ISBN 9784569616186
  4. ^ 小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書)PHP研究所、2001年 p.184 ISBN 9784569616186
  5. ^ 尾藤徳行 (2013年7月27日). “淀城跡”. 第247回 京都市考古資料館文化財講座. 京都市埋蔵文化財研究所. 2019年9月7日閲覧。
  6. ^ 竹林 & 今井 1995, p. 410.
  7. ^ 新近江名所圖會 第260回 「大日山」の掘削 -大津市黒津町- | 公益財団法人滋賀県文化財保護協会”. 滋賀県文化財保護協会 (2017年10月4日). 2021年1月16日閲覧。
  8. ^ 治水の歴史”. 水のめぐみ館「アクア琵琶」. 2021年1月16日閲覧。
  9. ^ 古田 1965, pp. 41–42.
  10. ^ a b 竹林 & 今井 1995, pp. 410–411.
  11. ^ 竹林 & 今井 1995, pp. 411–412.
  12. ^ 暁鐘成「雲錦随筆」吉川弘文館(日本随筆大成 巻2)1927年(昭和2年)、44頁
  13. ^ a b 竹林 & 今井 1995, p. 412.
  14. ^ 国土交通省近畿地方整備局琵琶湖河川事務所、独立行政法人水資源機構琵琶湖開発総合管理所 (2014年1月). “瀬田川洗堰操作規則制定までの道のり”. 国土交通省近畿地方整備局. 2021年1月16日閲覧。
  15. ^ 今週の今昔館(155) 長柄三頭 20190319”. 2019年3月19日閲覧。
  16. ^ 大阪春秋第19号. 大阪春秋社. (1979-01-30) 
  17. ^ 淀川かわあるき=Guide Maps of Yodogawa:淀川ガイドマップ. 読売連合広告社. (2008-03-10) 
  18. ^ 日外アソシエーツ編集部 編『日本災害史事典 1868-2009』日外アソシエーツ、2010年9月27日、33頁。ISBN 9784816922749 
  19. ^ 京阪、大阪・天満橋~枚方に定期観光船 9月から運航日本経済新聞』朝刊2017年7月26日(関西経済面)
  20. ^ 津田松苗「10-汚水と生物」『原色現代科学大事典 4-動物1』久米又三 著(代表)、学研、1967年、p.231「図2 淀川の水質汚濁の変遷」より抜粋。
  21. ^ 津田松苗「10-汚水と生物」『原色現代科学大事典 4-動物1』久米又三 著(代表)、学研、1967年、p.230-231「淀川の生物的水質判定」
  22. ^ 参考文献・京都新聞連載記事「潤いをとどけて・京都市水道100年」2012年8月21日掲載『8)返したい美しい水』京都市印刷物 第026021号『京の水だより Vol.12 京都市下水道90周年(2020年8月)』
  23. ^ 京都市広報「きょうと市民しんぶん」平成25年1月1日号3面掲載の「東部クリーンセンターの持ち込みゴミの受付終了」より
  24. ^ 淀川河川敷の違法グラウンド撤去へ 長年の「無法状態」動かしたきっかけとは 毎日新聞 2020年12月18日






淀川と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「淀川」の関連用語

1
96% |||||

2
90% |||||

3
90% |||||

4
90% |||||

5
90% |||||

6
90% |||||

7
90% |||||

8
90% |||||

9
90% |||||

10
90% |||||

淀川のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



淀川のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの淀川 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS