日本の染織工芸
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「染織」は、同じ読み方の「染色」とは意味が異なる。「染織」とは、字義どおりには「染め」と「織り」とを指すが、工芸分野における「染織」とは、染物、織物のほかに、編物、刺繡、アップリケ、パッチワーク、フェルトなどを含めた、繊維を用いて「ぬの」を作り、これを加飾する技術、およびそうした技術によって作られた製品を指すのが通例である。[1][2] 弥生時代の吉野ヶ里遺跡には、染めた絹の遺品が存在する。日本茜、貝紫が確認されている。日本茜で染められた絹布は、大陸に献上されていた記述が魏志倭人伝に残っていることから、有史以前より日本独自の染織があったとみられる。 日本の染織工芸は、美術工芸の他の分野と同様、中国や朝鮮半島との交流があり、影響を強く受けているが、舶来品と、国産品には明確に違いがある。8世紀の正倉院裂(ぎれ)とこれにやや先行する法隆寺裂には、シルクロードで運ばれたオリエントの染織品、大陸の染織品も含まれるものの、国内で作られたものがほとんどである。意匠的には違オリエント、唐の影響が濃いが、違いは明確に存在している。唐の滅亡以降平安時代の染織は公家を中心に和風化を強めていく。その一方で、中国(宋、元、明)の織物は武家文化、殊に茶の文化において珍重され、中世末期以降は海外貿易によってヨーロッパの毛織物(ラシャ)やインドの木綿の染物(更紗)ももたらされた。近世には染織文化の担い手も公家、武家から町人、農民へと広がり、多彩な絵画的文様を染め上げた友禅染、舞台衣装である能装束、各地で生産された絹織物や木綿の染物など、多彩な染織品が生産された。特に身分の上下に関係なく着用された「小袖」は、近代の「着物」の原型となり、kimonoは日本の伝統衣装の代名詞として国際語になっている。近代以降は、生活の洋風化と、化学繊維、化学染料の普及により、伝統的な素材・技術による染織はかつての役割を終え、伝統工芸品、無形文化財としてその命脈を保っている。
素材
日本の伝統的染織工芸に主として使用された素材は絹、麻、木綿である。このうち、木綿が広く使用されるようになるのは、綿の栽培が普及する近世以降である。
糸と布
織物を総称して「布帛」(ふはく)といい、「布」は植物性の「ぬの」(特に麻布)、「帛」は絹織物を指すのが本来だが、以下、本項では煩雑を避けるためにいずれも「布」表記で統一する。染織品を指して「裂」(きれ)という用語も多用され、「名物裂」「正倉院裂」のように用いる。
人類は、植物性や動物性のさまざまな繊維から糸を作り、それを用いて、衣服、装飾品などの製品を作り出してきた。それは日本列島においても例外ではない。人々は蚕の繭から糸を引き出し、あるいは植物の茎や幹などの靭皮(じんぴ)繊維を引き裂いて繊維を取り出し、より合わせて糸を作ってきた。前者の作業を「紡(つむ)ぐ」、後者の作業を「績(う)む」と表現する[3]。こうして紡いだり績んだりした糸は、そのままでは1本の線にすぎないが、これを機(はた)に掛けて、経糸(たていと)とし、これに緯糸(ぬきいと、よこいと)をからませて織り上げていくことによって、糸は布という二次元の「面」に変化する。この、糸を「線」から「面」に加工する作業が「織り」である[4]。織物には、交差する経糸と緯糸とが1本ずつ交互に浮き沈みするだけの、もっとも単純な「平織」を基本に、織り方、素材、加飾方法などの違いにより、平絹(へいけん)、綾、繻子(しゅす)、錦、羅、紗、絽、金襴、緞子(どんす)、綸子(りんず)、縮緬など、さまざまな名称を持った布が作られる。織り上がった布は、その用途に合わせ、裁断し、縫い合わせ、色や模様を付けるなどの加工を施す。一方、植物や動物(虫)などから取った染料を用いて、糸や布に色付けをする作業が「染め」である。これにも、あらかじめ各種の色に染めた色糸を用いて織ることによって文様を表す方法(先染め)、これとは逆に、織り上がった布に色を付ける方法(後染め)など、さまざまな技法がある。布の加飾方法には「染め」以外にも刺繡、アップリケ、描絵(布面に直接絵を描く)、摺箔(金箔を貼り付ける)など、さまざまな技法がある。糸から布を作る方法にも「織る」以外に「編む」という方法があり、フェルトのように羊毛などの動物性繊維を圧着してからませる(縮絨)ことによって作る不織布もある。一般にはこうした技法も含め、繊維を素材とし、伝統的な素材・手法で製作する工芸品を染織工芸と称する。
経糸と緯糸
織物は経糸と緯糸から構成される。経糸とは、長さを揃えて織機に張る糸であり(この作業を「整経」という)、緯糸は経糸と90度の角度をなしてからんでいく糸である。織機にはさまざまな種類と構造があるが、基本的には経糸を巻き付けておく「千切」(ちきり)、織り上がった布を巻き取る「千巻」(ちまき)、経糸を上下させる「綜絖」(そうこう)、上下の経糸の間に緯糸を通す「杼」(ひ)、経糸を揃え、緯糸を打ち込む「筬」(おさ)などの部品からなる。緯糸は「よこいと」とも読むが、古くから「ぬきいと」と読まれてきた。『万葉集』の歌に「み吉野の青根が峰の苔むしろ誰か織るらむ縦緯(たてぬき)なくに」(1120番歌、作者未詳)とあり、『古今和歌集』の冬歌に「龍田川錦をりかく神な月しぐれの雨をたてぬきにして」(よみ人しらず)とあるのがその例示となる[5]。
絹
絹は中国でその製法が発明されたもので、蚕(カイコガの幼虫)が作る繭から取り出される糸である。絹糸は古代中国の偉大な発明の一つで、すでに新石器時代の仰韶文化の遺跡から繭殻や紡錘車が出土しており、殷代の甲骨文字には「桑」「帛」などの文字がみられる。ローマ帝国からオリエント、中央アジア、中国を経て日本へと至る、東西の文化圏を結ぶ古代の交易路をシルクロード(絹の道)と呼ぶことに象徴されるように、絹は中国の主要な輸出品の一つであった。『魏志』「倭人伝」によれば、日本へは弥生時代には絹製品とその製法が伝来しており、高級な織物はもっぱら絹で作られた。織り上がると美しい光沢をもち、肌触りがよく、どのような染料にもよく染まる絹は、染織工芸には欠かせない素材である。植物繊維が植物の丈以上の長さがないのに比べ、絹は1本の糸が非常に長いことが特徴である。繭を湯で加熱して取り出した糸は、中心部がフィブロインという物質からなり、その周囲をセリシンという膠(にかわ)質が覆っている。生糸を灰汁(あく)などのアルカリ性の液体で煮沸してセリシンを除去する作業を「精錬」あるいは「練り」といい、精錬したものを練絹、精錬前のものを生絹(きぎぬ、すずし)という。精錬は製織後に行う場合もあり、糸の状態で行うこともある。精錬することによって、絹の光沢が増し、染料の吸着もよくなるとされている。[6]
麻と木綿
麻は、アサ科(かつてはクワ科とされていた)の大麻、イラクサ科の苧麻(ちょま)の茎から作られる靭皮(じんぴ)繊維で、主に庶民の衣服や夏用の薄手の衣服に用いられた。綿の実から取られる木綿は、インドでは古くから染物に使用されている素材で、近年の考古学上の発見から日本でも縄文時代から使用されていた事がわかっている。(以前は栽培されるようになったのは明応年間(1492 - 1500年)とされていた)近世以降各地で広く栽培されるようになった。木綿は庶民の衣料や浴衣、風呂敷などの素材として広く用いられた。[7]
染料
近代以降は化学繊維・化学染料が主流となるが、近世以前の日本の伝統的染織工芸に用いられたのはすべて天然繊維・天然染料であった。日本の染織工芸では植物由来の染料が大半である。これらは特定の植物の花、葉、幹、根などから色素を抽出するものであるが、天然色素の大部分は、糸や布に色を定着させるために、灰汁(あく)、明礬(みょうばん)などの他の物質による化学変化を利用する必要があり、このような染色を助ける物質を媒染剤という[8]。ただし、梔子(くちなし)のように媒染剤を必要としない染料もある。なお、布を白く染める染料は、存在し、特に古代の朝廷において絹の染色の土台として用いられた。その影響によって今もなお法隆寺宝物や正倉院の遺品は、色彩が保たれているのである。
赤系の天然染料は、紅花と茜(あかね)が代表的なものである。紅花(ベニバナ)はキク科の草本で、他の多くの植物染料が根や葉を利用するのと異なり、花の部分が染料になる。紅花の花には赤と黄の色素が含有されているため、赤色を出すためには水洗いして黄色の色素を流出させねばならない。紅を「くれない」とも訓ずるが、これは「呉の藍」の意である[9]。茜は、アカネ科の草本で、根から赤の色素が抽出される。インド茜や六葉の西洋茜もあるが、日本産のものは四葉の日本茜であり、世界中の茜の中で唯一薬効があり、古代より海外へ輸出されていた。紅花の花と同様、茜の根にも赤と黄の色素が含まれるため、黄色の色素をあらかじめ流出させる必要がある。蘇芳は、マメ科植物のスオウの幹の中心部から抽出する染料で、媒染剤によって赤または紫に発色する。スオウは、日本には自生しない南方の植物であり、当然輸入品であった。他に、近世に用いられた猩々緋(しょうじょうひ)という鮮烈な赤色があるが、これはサボテンに寄生するカイガラムシから取られたコチニールという動物性色素で、海外貿易による輸入品であった。臙脂(えんじ)も赤ないし紫系の色名であるが、これは、紅のことを指す場合と、カイガラムシから採れるコチニールを指す場合があった。[10]
青系色は、天然染料の場合は、もっぱら藍(インディゴ)である。藍は単一の植物の名前ではなく、さまざまな植物から作られる。藍による染色は世界各地の民族にみられ、インドではマメ科のインド藍、琉球ではキツネノマゴ科の琉球藍が用いられるが、日本で用いられるのはタデ科の蓼藍である。蓼藍の葉から色素を抽出する方法はいくつかある。生葉から抽出する方法もあるが、生葉染めができるのは真夏の時期の葉に限り、濃い藍色に染めることは望めない。灰汁などのアルカリ性の液体に藍葉を浸して沈澱させる沈澱法もあるが、日本で近世以後広く行われてきたのは「すくも法」である。その製造工程は複雑かつ長期間にわたるが、ごく簡潔に説明すると、まず蓼藍の葉をよく乾燥させ、その後、水を繰り返しかけて蒸らし、発酵させ、腐葉土のような状態にしたものを作る。これが「すくも」である。染料として使用する際にはこの「すくも」を、灰汁などのアルカリ性成分に日本酒などの糖分を混ぜた液体に浸けて発酵させるが、これを「藍を建てる」「発酵建て」と称する。天然の藍は、こうした長期間の重労働によって製造される。[11][12]
紺は藍のもっとも濃く発色したものである。縹(はなだ)、浅葱(あさぎ)などは藍の濃淡によって生じる色で、萌黄(もえぎ)のような緑系の色は藍と黄色を掛け合わせることによって表した[13]。
黄系の天然染料は数が多く、イネ科草本のカリヤス(刈安)のほか、キハダ(黄檗)、ウコン(鬱金)、クチナシ(梔子、支子)などから作られる。[14]
紫色の色素として日本で主に使われるのは、ムラサキ科の紫草で、この根を湯に浸して抽出する。蘇芳と臙脂については赤系色の項で述べた。地中海沿岸地域では貝の内臓の色素を用いた貝紫がある。日本でも弥生時代の吉野ヶ里遺跡の染織品に残されている。また、江戸時代の木綿縞に痕跡がある。
注釈
- ^ 経三枚綾とは、経糸が緯糸2越分浮いて、1越分沈む形を繰り返す。
- ^ 金襴は文緯に金糸を用い、金糸で文様を表した織物。中国では織金という。金糸は金箔を貼った紙を細く裁断して糸としたもの。日本の金襴が金糸のみで文様を表したものを指すのに対し、織金は金糸を用いた織物全般を指す点で意味に相違がある。
- ^ 緞子とは、地を繻子織とし、文様をその裏組織の繻子織で表した織物で、経糸と緯糸に異なる色の糸を用いたものを指す。ただし、名物裂で緞子と称されるものは、必ずしも前述のような組織でなく、経糸と緯糸に異なる色糸を用いたものを指している。
- ^ 印金は、帛面に糊や漆などで金箔を貼って型文様を表したもの。地には羅、紗、綾などが用いられる。
- ^ 武士などが羽織って着たコートのような衣服。
- ^ 練貫とは、経糸に生糸、緯糸に練糸(精錬した絹糸)を用いて織ったもの。
出典
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