決闘裁判
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決闘裁判(けっとうさいばん、ドイツ語: Gerichtskampf, 英語: trial by combat, trial by battle)は、 証人や証拠が不足している告訴事件を解決するために、原告と被告の両当事者が決闘を行うゲルマン法の一つの方式[1][2]。
歴史
501年にブルゴーニュ王グンドバートは「被告が問われている罪を否定し、原告がそれに満足していないときは剣を手にしてでも真実を明らかにすると表明してよい。被告がなおも否認するならば、議論は剣によって解決することを法として認める」「すべての人は自分の証明しようとする真実は剣をもって守り、甘んじてこの裁きを受ける用意を持つべきである」として判決のための決闘(決闘裁判)を制度化した。この裁判方法はヨーロッパ各地に広がり、中世ヨーロッパでは長きにわたり裁判としての決闘が行われた[3]。こうした裁判が行われたのは「神は正しい者に味方する」「決闘の結果は神の審判」というキリスト教の信仰が背景にあった[4][5]。ただし封建主義時代のことなので決闘の対象となりうるのは貴族や自由人に限られていた[4]。
こうした裁判方法は10世紀から12世紀に最盛期を迎えたが、1215年にはラテラン公会議で禁止され、ついで1258年のルイ9世の勅令によっても禁止された[4]。合理主義者として有名な神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は1231年メルフィの勅令において、熱鉄神判や冷水神判などの神判を明確に否定し、決闘裁判も禁止したが、「密殺と大逆罪についてはなおその存続を容認した」[6]。裁判としての正当性が疑われるようになってきて[7]、フランス・イギリスでは14世紀以降にはこの形態の決闘はほとんど姿を消す[8]。
決闘裁判は減っていったが、代わりに16世紀以降個人間での名誉回復の手段として私闘の「名誉のための決闘」が増えた。名誉のための決闘は特に上流階級の間で盛んに行われた[4][9]。
出典
参考資料
- 山内進『決闘裁判――ヨーロッパ法精神の原風景――』 講談社 2000年(講談社現代新書1516)(ISBN 4-06-149516-X)
- 山内進「中世ヨーロッパの決闘裁判 : 当事者主義の原風景」『一橋論叢』第105巻第1号、一橋大学、1991年1月1日、62-82頁。
- 光安徹「中世イングランドにおける決闘裁判」『成城法学』第42号、成城大学法学会、1993年3月、73-131頁。
- 加藤文元『ガロア 天才数学者の生涯』中央公論新社〈中公新書〉、2010年(平成22年)。ISBN 978-4121020857。
- 藤野幸雄『決闘の話』勉誠出版、2006年(平成18年)。 ISBN 978-4585053620。
関連項目
決闘裁判
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「神明裁判」も参照 決闘(duel)の語はラテン語の二人(duo)と戦い(bellum)から生まれた言葉である。決闘は個人間の紛争を格闘によって解決したゲルマン民族の伝統が由来と考えられている。 501年にブルゴーニュ王グンドバート(フランス語版)は「被告が問われている罪を否定し、原告がそれに満足していないときは剣を手にしてでも真実を明らかにすると表明してよい。被告がなおも否認するならば、議論は剣によって解決することを法として認める」「すべての人は自分の証明しようとする真実は剣をもって守り、甘んじてこの裁きを受ける用意を持つべきである」として「判決のための決闘」(決闘裁判)を制度化した。この裁判方法はヨーロッパ各地に広がり、中世ヨーロッパでは長きにわたり裁判としての決闘が行われた。こうした裁判が行われたのは「神は正しい者に味方する」「決闘の結果は神の審判」というキリスト教の信仰が背景にあった。ただし封建主義時代のことなので決闘の対象となりうるのは貴族や自由人に限られていた。 決闘裁判は次のような手順で行われる。たとえばある者の父親を殺したとされて告訴されている被疑者が無実を訴えて決闘をしようというとき、被疑者は無実であると宣言して片方の手袋を外して地面に叩きつける。この行為は身をもって証を立てるという意味がある。告訴した相手はそれを拾い上げる。この行為は命には命で白黒を着けるという意思の表れである。つづいて被疑者は右手を聖書に置き、左手で相手の右手を握り「聞け、我手を取りし汝、洗礼名○○○なる者よ。我洗礼名×××は△△△なる汝の父を殺害せしにあらず。またいかなる意味にてもこの罪に値せず。神よ聖者よ。ここに我、汝に対し我が身体を以て身の証を立つる者なり」と宣言する。相手も同様に宣言を行うと決闘日と武器が指定される。 決闘の武器は初期の頃は1メートル強の長さの棒が使用されることが多かったが、後に身分ある者の間では槍、さらに後には剣が使用されるようになる。決闘は特別に定められた場所で行われ、そこには黒布で覆われた2つの椅子、審判者たちの座席、被告が敗北した時に処刑するための絞首台が設置されている。決闘する両名は席についてまず宣誓をし、告訴側は南、被告側は北から決闘場へ入場する。決闘の結果、被告が戦闘不能な状態にまで打ち負かされた時にはただちに絞首刑が執行される。被告が決闘で死亡した場合は被告は血を以て潔白を贖ったとされる。逆に告訴側が決闘に敗れて死んだ時、あるいは夕方星が出るまでに決着がつかなかった時は被告は告訴を免れる。告訴側が降参した場合には告訴の権利は失われ、また不名誉を後々まで残すことになる。 原則として被告と告訴した者当人同士で闘うが、女性、病人、60歳以上の者は免除され、後には聖職者も免除対象となった。また次第に代理が立てられることが増え、決闘は代理戦士同士で行われるようになった。代理戦士は危険な仕事で決闘に負けると右手を切り落とされる。法的に証人に当たるからだが、依頼者のために精一杯働くようにする意味もある。代理戦士が戦っている間、原告と被告は決闘が見えない場所で首に縄をかけられた状態で待機し、負けた代理戦士を立てた側はただちに絞首刑に処されることになる。 イングランドには最初期には決闘はなかったと見られるが、ノルマン人による征服後にウィリアム1世によってもたらされた。イングランドにおいては次のように運用されていた。犯罪を犯した者が明らかであるにもかかわらず、証拠が十分でないために相手が無罪になったとき、あるいはなると考えられるときに、被害者が決闘を申し込んだ。主に、証拠のない殺人など重犯罪について決闘が行われた。土地の所有権などの争いにも利用することができた。これを決闘裁判と呼ぶ。訴追する者が決闘によれない(重傷者・老人・女性)場合は神判となり、失敗は死か四肢切断を意味した。決闘の場合、決闘責任者は裁判官であった。重犯罪の共犯者が自白し告発人となった場合、自白し告発した共犯者を相手にその嫌疑を決闘で証明することに成功すれば、彼は死を免れ公民権を失い退国宣誓をすることにより命をつなぐ事が出来た。 1385年、フランスで合法的な手続きに基づく最後の決闘が行われた。ジャン・ド・カルージュが、ジャック・ル・グリが覆面をして[要出典]自分の妻に乱暴をはたらいたとして決闘による裁判を申し込んだ。ル・グリは無実であると主張したが決闘を受け入れた。決闘の結果、ル・グリは敗者となって死に、カルージュの主張が認められた。これ以降、パリにおいては決闘裁判は行われなかった。 イングランドでは、15世紀末の1492年に正式な裁判手続きに基づく最後の決闘裁判が実施された。同じ世紀の中ごろにも非常に珍しい決闘裁判が行われたという記述があることから、15世紀の頃には裁判手続きとしての決闘裁判はほとんど行われなくなっていたことがわかる。ただし決闘裁判は制度としては廃止されずに19世紀までは存在し、1818年までは正式な裁判方法の1つであった。この年、若い女性を殺害したとして殺人罪で告訴された者が、公訴による裁判で無罪を獲得したにもかかわらず、被害者側からさらに刑事私訴されたことに対し、決闘方式による裁判方法を請求し、約300年ぶりに決闘裁判が行われることになった。しかしこの請求は被害者側の遺族が受諾しなかったために成立しなかった。翌1819年にもやはり類似した事件で決闘裁判が請求されるにいたり、議会は決闘裁判を廃止する「殺人私訴法」を制定した。
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