19・20世紀
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1805年のイギリス海軍による大陸封鎖は、河口の奥まった位置に開かれていたカンペールの港を僅かに潤すこととなった。これはブレストが主な監視対象となったためである。 19世紀には行政・宗教機能によりカンペールの重要性はさらに増し、人口は緩やかに増加していく。土地が限られている上に隣接市街が近いため、近接するコミューンへも少しずつ人口が流入することとなった。第118歩兵連隊の駐屯地にもなっている(1907年当時の大佐はフィリップ・ペタンである)。 1863年にカンペールに到達しその後ドゥアルヌネまで延長された鉄道と、農産物の輸出入を見越した港の開発は、1880年以降の加速度的な経済発展を導くこととなった。これは農業の生産性向上に加え、港にガスタンクを建造したルボン社の都市ガス導入に象徴される着実な産業化に支えられていた。港は水路幅の狭さや潮の影響に関わらず今日でも活発に使用され、特筆すべき輸入品として石炭・砂・ワインなどがある。 交通の改善は観光産業の勃興を促し、これはホテルや旅客・運送業の発展に波及する。カンペールは水辺の景観や旧市街の魅力で観光客を惹きつけ、海浜リゾート(とりわけシザン岬のベノデと小漁港群およびビグダン地方)へのアクセスの転車台の役割を果たすようになり、これらの発展を確かなものとした。海産物の保存食品、野菜や果物、ジャムなどの農業・食品製造業は長きに渡る経済基盤のひとつとなっている。繊維工業および軽機械工業、陶器産業も20世紀の前半の大幅な経済成長に貢献した。 大戦中はドイツの占領下となるが、イギリスへ向けた最初の地下放送ラジオの開設、強制労働に関する書類の奪取といったレジスタンス運動の殊勲の舞台ともなった。レジスタンスは連合軍の上陸の報を受けて退却することとなるドイツ軍の大きな足枷となった。1960年に行われた4自治体のカンペールへの統合は建設業の成長を呼び、新道・バイパス・橋梁の建設、航空路線・鉄道(TGV)・高速道路(パリおよびブレスト路線)による高速輸送の到来といった様々な開発発展により、カンペールを優れたアクセス性を有する都市へと変貌させた。 1962年には西ブルターニュ大学(Université de Bretagne occidentale、UBO)がブレストに開設されており、カンペールには1998年にUBOとは独立の大学拠点として全国に分布する工科大学(Institut universitaire de technologie、IUT)の一つが設置された。様々な高等教育を行なっており、全体の学生は4,000名を越える。60年代に併合されたコミューンであるペナルとエルゲ=アルメルには、高みには白壁と暗色のスレート屋根の一軒家が連なる一方、国による団地建設も行われている。 1960年以前には44,000人以下であったカンペールの人口は2006年に64,700人を越えた。1970年に予想された120,000人には遠く及んでいないが、毎年少なからぬ人口を受け入れ続けている。
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19・20世紀
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ヴュルテンベルク王フリードリヒ1世の甥であるアレクサンダーは、1835年にハンガリー貴族のレーデイ・クラウディア伯爵夫人と貴賤結婚した。二人の間に生まれた息子フランツはヴュルテンベルクの王族としての称号も王位継承権も与えられなかったが、ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世によって1863年にテック侯(Fürst von Teck)の称号を与えられ、1871年にはカール1世王によってテック公(Herzog von Teck)に昇叙された。 フランツは1866年にイギリス王ジョージ3世の孫娘メアリー・アデレード・オブ・ケンブリッジと結婚した。収入のないフランツは妻メアリー・アデレードがイギリス議会より給付される王族年金で暮らさざるを得ず、テック公爵夫妻はロンドンで生活するようになった。メアリー・アデレードの従姉にあたるイギリス女王ヴィクトリアは、フランツに「His Highness」の敬称を与えた。1892年、テック公爵夫妻の長女メアリーが、後にイギリス王ジョージ5世となるヨーク公と結婚すると、テック公爵家は正式なイギリス王室の一員として扱われるようになった。 フランツが1900年に死ぬと、長男のアドルファスがテック公爵位を継承し、1911年に義兄のイギリス王ジョージ5世より「His Highness」を与えられた。 第一次世界大戦中にイギリス国内で反ドイツ感情が高まると、国王ジョージ5世はドイツ由来の家名サクス=コーバーグ=ゴータ家を捨ててウィンザー家に家名を改称した。ジョージ5世は自分の持つドイツ由来の称号全てを放棄し、イギリス王室に連なるドイツ系の人々を全員イギリスに帰化させた。テック公アドルファスとその家族も例にもれず、ヴュルテンベルク王国の爵位であるテック公およびテック侯の称号を放棄した。テック公は母方の祖父であるケンブリッジ公アドルファスの称号に因むケンブリッジ侯爵に叙せられ、公爵の家族は新しく「ケンブリッジ」姓を名乗った。ケンブリッジ侯爵の弟アレグザンダーはアスローン伯爵に叙せられた。 第一次世界大戦の終結と同時に、ヴュルテンベルク王国は消滅してヴァイマル共和国の一部となったため、ヴュルテンベルク王国におけるテック公爵位の再創設は無かった。テック公フランツの最後の男系男子である第2代ケンブリッジ侯爵ジョージは1981年に死んだため、現在テック公爵位を請求する権利のある者は存在しない。
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